今後、社会はどのように変わってしまうのか?社会生活をすることが全て障碍者を基準にすれば社会的弱者の高齢者・子供・女性・障碍者は生活しやすくなるのではないでしょうか?ここでは、障碍者と健全者の二元論でお話を進めていこうと思います。私たち、人間は根っから自分と他の人たちを比較して自分のほうが他の人達より裕福で幸せだと考えてしまうのかもしれません。例えば、結婚している・子供がいる・持ち家がある・お金がある・いい車に乗っている・給料がいい・勤めている会社が大きい・高学歴等・・人と人を比較すれば限(きり)がないです。
我々障碍者が社会の中で生活するには、様々なバリヤーがあります。例えば、高さが15センチの階段があります。健全者は階段を使えます。身体障碍者は無理です。2,3段なら介助者に頼めば車椅子ごと大丈夫ですがそれ以上はちょっと無理です。それなら、高さ30センチの階段はこれも無理すれば健全者の大人なら何とか使えます。高さが60センチならどうでしょうか?これならば、健全者も障碍者も階段は無理で使えません。そうすると階段を使えない人は障碍者とすると、健全者と称する人は障碍者となります。私がここで何を言いたいかというと健全者を基準とする社会では障碍者は存在する。障碍者を基準とすると社会では健全者と障碍者と言う言葉は、存在するのでしょうか。私たち障碍者は、様々なリハビリをして健全者を目指して訓練をしています。しかし、その殆どの訓練は、役に立たないことが多いです。身体障碍者は服を着るのに何時間もかけて自分で着れるようになることがいいことなのでしょうか?障碍者にはもっと有効な時間の使い方があっていいのではないでしょうか?障碍者が福祉的就労をしています。給料は、20日働いて3万円くらい、この賃金だとその殆どがタバコ代に消えてしまいます。かといって、私たち障碍者が仕事をすると、仕事は遅いし、手際が悪いです。臨機応変な対応が出来ません。仕事の力配分が上手くできません。ある本で、「障碍者が僅かな給料でも有り難く思いなさい。その施設の職員は、こうも言いました。障碍者が働けるだけでもいいのではないか。この施設の職員が、障碍者の皆が働けるようにサポートしているから皆が働けるんだ。」と話していました。「我々は、霞を食べているのではない。ちゃんとした収入がないと生活していけない。」とも言っていました。私はこの本を読んでびっくりしました。今でも、こんな施設職員がいるのに唖然としました。例えそうであっても言葉にして話さないことがいいこともあります。「健全者に可愛がられる障害者になりなさい。」とも家族が言うこともあります。障害があることが悪いことであるように、私には聞こえます。障碍者は、健全者を目指してリハビリやさまざまな訓練をして介助者が必要なくなることを目指すのがいいことなのでしょうか?
障碍者差別は確かにあります。しかし、比較して健全者・障碍者という言葉があるのが悪いのだと思いました。しかし、健全者を基準にして障碍者を見下げてみる人がいることも事実なのですね。ここで私は考えます。社会の中の基準を社会的弱者(高齢者、子供・女性・障碍者)にしてみればいいのではないかと考えます。今の障碍者観は、健全者が基準になっているようです。ここ十数年不景気になり新卒の学生でも仕事に就くことができず、派遣の仕事に就いている人も少なくないです。それだから障碍者がなおさら仕事に就くことは難しいですね。社会の中のものを社会的弱者が使いやすくして、彼ら中心に考えてみてはいかがでしょうか?なかなか上手く社会の人達全員に社会的弱者のことを浸透させることは難しいと思います。私は、全ての人達が大体義務教育は受けるので、その機会の中で伝えることが一番効果的だと思います。200,300年くらい人間には必要ではありませんかねー。障碍者の差別・偏見・汚名を人間から取り除くにはそれだけの年数が必要だと思います。
私たち人間は歳をとります。高齢者になると歩くこと、階段を上るのが辛くなります。そのために、階段・スロープ・エスカレーター・エレベーターがあります。我々人間には、選択肢が3つ以上あればいいなと思います。2つだとイエスかノーだけですけど少なくとも3つ以上あれば、選択する機会が楽しみになると思います。このような考え方に皆様はどうお考えでしょうか。
我々障碍者にも障碍者差別があります。状態のいい人が悪い人を差別します。まともに話すことができる人とできない人など、障碍種別が違えば共感することが難しいかもしれません。人は、自分の言動にいつも責任を持って生活しているのでしょうか?そうやって張り詰めた生活をしているのでしょうか?張り詰めた生活の中にも、気を緩めることも必要かも知れません。仲の良い友人には愚痴をこぼすこともあるでしょう。聖人君子のような人がこの世に存在するのでしょうか?きっと、人に気付かないときにそういう人も気を抜いているのでしょう。
社会の物事に何かしら基準となることがあるのは当たり前のことだと思います。私も同感です。しかし、それが差別・偏見・汚名を浴びさせられる人のことを考えてみてください。私は、嫌です。人がそれらを浴びせられて気分を害するようなことは、私はそのような言動をしません。私が嫌なことは、他人にはそのような対応をしません。しかし、いつも気をつけて生活していても失敗をすることがあります。その時は、私は相手に非礼を謝ります。嫌なわだかまりを続けることは辛いですからね・・・・・。
【編集後記】
私は、人と話をあまりしませんが知らないところで人を傷つけているのではないかと考えたりします。それで、自分自身を責めて調子が悪くなることがあります。世の中の皆さんもそんなことが有るのではないかと思います。よく、人の話を聴いていると当人がいないところで悪口を言う人がいます。よくその話を聴いてみると自分を基準にして、他人を非難しているようです。物事は、たいてい何がしかの基準の下に非難する人・される人がいるようです。この場合、非難される人の気持ちを考えたら、そういう言動を取れないと私は考えます。つまらないことですが私も耳に入ることで様々考えます。「人間は考える葦である。」と誰かが昔言っていました。そういえば、数年前、ダスキンの留学生のKが私のことを「静かな人」だと言っていました。職場の皆は私のことを「無害な人」と思っているのでしょうか?私は、人間です。様々な気分のときがあります。だから私は、いざこざを起こしたくないので、「静かな人・無害な人」を演じ続けています。私も人間です。様々な感情を出したいです。ただ、そういう気持ちを出すと、職場の皆・友人たちはびっくりします。だから、私は感情を出しません。
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