メンタルにゅーすVol.139

メンタルにゅーすヒエダ

画像

統合失調症

その暗黒の年月

2013年  Vol.139

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 SAM

Tel(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL    http://members.jcom.home.ne.jp/s-cil/

 今だから、振り返れる精神分裂病(統合失調症)発病の前後のお話をしようと思います。私は、今から31年前に統合失調症を発病しました。その前に横浜のH製作所の会社の全寮制の学校で13ヶ月勉強していました。この当時、私は人間関係が上手くいかず、誰かに監視されているような、私の周りの人が私を非難しているような気がしました。

何もする気が無くなり、勉強が頭に入らなくなりました。学校は休みがちになり、元気がなくなりました。生気が無くなり毎日ぼけーっとしていました。なぜ、こんな状態になったのかさっぱり分かりませんでした。機械工学科の主任教授からノイローゼになったのだろうーと会社の医務室に行くように指示を受け、カウンセリングを受けていました。

私のこの医務室のカウンセリングは話を聴くだけで、服薬もしていませんでした。医療的な治療ではなかったのだろうと思いますし、カルテもありませんでした。私の上司の教授もカウンセラーも軽いノイローゼだと考えていたのでしょう。後になって私は気がつきましたが、山口に帰って20年以上経って障碍年金の手続きをしているときに思い出しました。

1年近く、抑うつ状態が続いていました。この当時私は、給料を貰いながら勉強するのが仕事でした。ですから、必死で勉強しても頭に入らず、自分を責め続けていました。今思えば、典型的な統合失調症の症状がありました。しかしながら、この当時、私は抑うつ状態が続く毎日の中で、自分が精神病と気付いて精神科病院の門をたたいていたらと思います。会社の学校で私が病気だという自覚がありませんでした。病感すらもありませんでしたので、病識が働いて精神科病院に受診することすら私は考えつかなかったのです。とうとう最後は、勉強をすることが出来ない私に授業だけ出席してくれたら良いので、授業に出てくれと言われました。私には酷な沙汰でした。必死に勉強しても全く頭に入りませんでしたので辛かったです。授業を抜けてカウンセリングに行っていましたのでみんなによく非難されました。辛かったです。本当に辛かったです。精神科病院に受診していれば、もっと辛いことも楽になっていたのではないかとも思います。

 私は私の身に何が起きたのかさっぱり分かりませんでした。学校を卒業しましたら、元の職場に戻って仕事を始めました。職場に戻って2,3ヶ月しましたら私の身に大いなる闇が訪れました。かれこれ1ヶ月近く会社を休みました。年休が1日だけとなった日に、私の上司が会社の寮に来ました。翌日から、会社に出勤するように上司の業務命令がありました。その日の明後日からは長期出張でした。当時、今でもそうですが統合失調症のことも他の精神病のことも殆ど理解の無い時代でしたし、差別・偏見・汚名はひどかったです。私は、無理やりに出社させられて、直ぐに長期出張というひどい扱いを受けました。私が、精神病だと気付く人はいなかったのだろうかと疑問を持ちます。たぶん、同じ課の同僚は私がずる休みをしているのだろうくらいにしか考えていなかったのでしょう。私はわざと仕事を休んだのではないのにと・・・・・私は、それでも努力したのにと・・・・・・誰も分かってくれる人はいなかったのが悔しいです。

 結局、会社を退職して山口に帰りました。再就職して半年後に統合失調症を発病して山口大学医学部付属病院に入院しました。3ヶ月で退院して、その後服薬をしませんでしたので、抑うつ状態になり、別の病院で3ヶ月入院しました。それから、15年近く自宅で療養していました。その後、服薬を守らなかったので3回目の入院が4年くらいありました。その後、病院と社会の中間施設の援護寮に3年弱入所して、その施設で一般就労して1年間通勤して自立生活をスタートしました。私は一般就労をしましたが、それまで何度就職しても2日から1週間くらいしか仕事は続きませんでした。そういった経験がありましたので、仕事が上手く続くだろうかと不安を持ちました。私が就職したところがCIL下関でした。障碍者が主体となって障碍者の介助をする部門の特定非営利活動法人らいとに採用されCIL下関に派遣されて仕事をしていました。5年後、調子を崩して3ヶ月の入院の後退院して、CIL下関に復帰しました。それから現在に至ります。

CIL下関では、精神の当事者職員の募集でしたので病気と障碍をオープンで面接を受け採用されました。病気と障碍をオープンで働いていたので、調子を崩したら、早退、短縮就労、休暇をとったりして何とか働き続けることが出来ました。しかし、CIL下関での仕事が11年間も続いたのは私にとって幸せでした。何より、仕事がこんなに続いたのは奇跡です。上司や仲間の私への配慮・環境づくりのお陰です。

 私は、統合失調症を罹患して31年が経ちます。病気と障碍を抱えて、何も分からず20年間の暗黒を経験して、現在に至ります。それこそ真っ暗で何も形・色の把握が出来ない暗黒の時間を20年間、病気と障碍に振り回され続けました。あの暗黒の経験があることで、今私は、再度人生のやり直しをしています。物事、どんな事でも投げ出さないで、まず自分に出来ることからやり直して、そして継続してきました。私は、一生懸命ではなく、休憩を取りながら出来ることから始めて継続してきました。そうしたら、あっという間の下関での12年が過ぎ去ってしまいました。その間、私は当事者、健全者など様々な人たちのサポートと声援をいただきました。こんな私でも、私をサポートしてくれる人がたくさんいます。私は、下関で皆さんに少しではありますが当事者、健全者に役に立てばなと思います。そうして、私は一人じゃない、たくさんの人たちの声援で生活していることに気付かされました。こういった経験があったからこそ、暗黒の闇から立ち上がり、メンタルにゅーすを編集しています。皆さん、メンタルにゅーすは役に立ちますよ!だまされたと思って継続して読み続けてみてください。何か気付かされることがありますよ!

【編集後記】

 私は、以前一人ぼっちでした。下関に来てから稗田病院や施設職員に良くして頂きました。「援護寮ヒエダ新聞」から始めたニュースレターが現在「メンタルにゅーすヒエダ」に続いています。ニュースレターの編集は、無から有を生み出す作業です。私は、まだその苦しみを体験はしていませんがこのメンタルにゅーすはいつまで続くのでしょうか。私にはさっぱり分かりません。でも私は、ニュースレターの編集作業はこれからも続けると思います。

 私は、統合失調症に罹患して自分の人生の半分以上は、この病と共存しています。統合失調症との共存で気付かされることは多いです。その経験は皆さんにも頷かされるものがあるかもしれません。私は、障碍者の自立生活支援が私の主たる仕事です。今の私の生活が出来るようになるまで勉強もしたし、修羅場をくぐりましたし、たくさんのサポートを受けました。それら多くの人たちからエネルギーをもらい今の私があります。私は、どん底の暗黒の闇を経験したからこそ、自分の病気と障碍の闇から立ち上がりました。どんな事があっても立ち上がり皆さんにエネルギーを送り続けたいと奮闘しています。私は、いつも皆さんを見守っています。皆さんも当事者・健全者と様々な人たちがいますが、誰かが貴方の幸せを願っています。私が、闇の中の一筋の光となればなーと思います。私には荷が重いかな・・・・・・

トップページに戻る