メンタルにゅーすVol.169

メンタルにゅーすヒエダ

 

真面目で誠実に生きる?

不真面目にずるく生きる?

2014年  Vol.169

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 SAM

Tel(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL   http://members.jcom.home.ne.jp/s-cil/

 長く精神疾患を持って生きていると、統合失調症に罹患する当事者が、真面目で、正直で、責任感の強い人がなんと多いのかと思います。通常、人は自分のことをあまり詳しく説明しないです。付き合いながら師弟関係・家族関係・友人関係等を育むものです。自分のことを知ってほしいのなら詳しく話しますが、通常時間をかけて付き合っていきます。私がここで言いたいことは、当事者は余りに正直すぎて自分のことをスラスラ話してしまいます。普通は自分のことを守るため、秘密にします。それは自分を他者から守るために起こる防衛機制です。

 精神の当事者は、ナーバスで大人しく正直です。精神科病院(このお話は、以前私が入院していた山陽小野田市の精神科病院でのことです。)では、ニュースが乏しいのか当事者が入院すると話好きの人が新しい仲間に会いに来ます。病棟は60人くらいの当事者が共同生活をします。あっという間にニューフェイスの個人情報が広まります。そして小さな小さな社会の一員になります。そこでの当事者は様々です。金貸し、衣服の洗濯で金銭をもらってアルバイトをする人、お茶汲み、部屋の掃除をする人など、病棟の中でできないこと・不満に思うことは、プライバシーが守れないことです。通常1から3のグループの構成員がいます。情報屋、噂を広める人殆どが看護師や病棟婦などから入手することが多いです。なんと種々雑多な人がいるのだろうとびっくりしました。

 私は発病を入れて4回精神科病院に入院しました。今思えば昔のことを思い出すといい思い出です。しかし恥ずかしいこと、悔しいこと、辛いこと、悪いこと一通り遣り尽くしました。精神疾患を持って生きることは、辛―いことがいっぱいありました。何をやっても上手くいかない。お金もない、仕事をしてもそれが続かない。いったい自分に何が起こったのか。自分の病気を詳しく知らない。その病気の説明が病名だけ主治医から告知されただけです。また自分も病気や障碍を知ろうとする勉強すら始めようとしない。なんと、なんとそのような生きる屍というような状態でした。この頃のことを私の母は「SAMは怠けている。起きて布団を片付けて、ご飯を食べてしゃっきとしなさい。」とよく言われました。私は、意識して何もしないのではなくて、何も考えることができないで何かをするという意志も働かないでいました。自分の状況が的確に判断できませんでした。今、思い起こすと母は私が怠け病に罹患したのだぐらいの認識でした。

 私の父はアルコール依存で私が物心ついたときには働いていませんでした。しかしそんな父親がいるのに、私は家庭が貧しかったのですが不良にはなりませんでした。中学校を転校してから、今の家庭から抜け出すには勉強して、働いて幸せになろうと思っていました。今思い返しても不思議です。よく不良にならなかったと・・・・・・・・・・・

私は、自分の中に何か規範を持っていたのだろうと思います。また、私のおじさんが困ったときには、何でも相談に来いとよく言われました。勉強に必要なものはアルバイトをして買っていました。高校に進学して時計・かばん・学生服等と高価なものはおじさんが援助してくれました。そのおじさんも、私が統合失調症に罹患して入院してからは、私から離れていきました。その頃、統合失調症は、精神分裂病と呼称されていました。おじさんは私が精神科病院に入院したことをなぜ知っているのか、なぜか不思議でした。おじさんの心の中に親族が精神疾患を持ったのが他人に恥ずかしかったのではないかと思います。おじさんはよく他人に後ろ指を指されるのを非常に嫌っていました。確かおじさんは、私に親族の中に精神病のお前みたいな奴がいると世間体が悪いと、もう俺の家に二度と来るなみたいなことを言われました。私は傷つきました。と、私を、おじさんは心の中から排除してしまいました。それ以後私は、おじさんと話す機会はありませんでした。その後数年して亡くなりました。それから、私はおじさんの家に行くことは殆どありません。

 私の転機は、下関にある生活訓練施設援護寮ヒエダに入所してからです。職員が病気と障碍を持つ当事者として接するのではなくて、一人の人間として接してくれました。このような対応をしてくれる人たちと、その当時(平成13年頃)に初めて巡り会いました。援護寮って、精神当事者の社会復帰の促進を図るのであって、私たちを監視して、頭ごなしに命令される施設だと考えていたので、おっかなびっくりでしたがそんな施設ではありませんでした。援護寮の職員とは、今でもつながっていますし、私の仕事「メンタルにゅーすヒエダ」を楽しみにしてくれる人がいます。私は、お世話になっている稗田病院や敷地内にある施設(支援センター、障碍福祉サービス事業所等)には今でもニュースレターの「メンタルにゅーすヒエダ」を配布するときに1ヶ月に2度訪れます。稗田病院では私のことをどう考えているのか、私には分かりません。ただ気持ちよくニュースレターを受け取っていただいてます。私は、ごく普通にメンタルにゅーすを配っています。当事者が編集するニュースレターを楽しみにしてくれる人たちがいることに私は非常に嬉しいです。これからいつまで、メンタルにゅーすが続くか分かりませんが、当事者、病院・施設職員の皆さんが楽しみにしている人がいる限り私はメンタルにゅーすを続けていきたいと思います。

【編集後記】

 私は、生活訓練施設援護寮ヒエダに入所して、当事者との交流、施設職員に一人の大人の人間として接してくれて嬉しかったです。援護寮は、私を監視して観察して、調子が悪くなれば同じ敷地内の病院に入院させる施設ではないことが分かりました。職員は、私たち当事者が社会復帰できるように、様々なプログラムを適宜実施していました。知らないうちに服薬管理、金銭管理、調理・掃除・入浴・洗面など次第に身に着けていました。精神病になるとADL(日常生活動作:身づくろい・洗面・風呂等)が低下します。そんなことをできるように当事者どうし励ましあい協力していました。ちょっとした、全寮制の学校気分でした。仲間によるピアカウンセリング、ILP(自立生活プログラム:先輩当事者から後輩当事者に生活のノウハウ、制度の使い方等伝える)様々なことを当事者同士教えたり・教えられたりしました。今思えば懐かしい日々でした。

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