CIL下関当事者職員、SAMさん評価レベル4 (MAX5)
SAMさんと会ったのは14年?ぐらい前になるだろうか、、?宇部より1年くらい前に立ち上げられたCIL(自立生活センター)下関に月に4、5回、勉強のために足繁く通っていた初めの頃でした。
裏から見たら、よく人が住んでいるなー?と思うほどオンボロなアパートの1階に当時は構えられていたCIL下関の事務所でした。
古くからの友人でもあるCIL下関の河本代表から「ウチの精神障碍当事者職員のSAMさん」と紹介されました。印象に残っているのは顎のエラが張った四角い顔(笑)ガッシリとした体格、黒々、フサフサした髪(私に比べ)と黒縁メガネでした。
SAMさんは精神障碍当事者で、CIL下関で精神障碍者の自立生活支援の担当をしていました。私は若い頃に人間の内面的な事を知ることに興味を持ち、精神分析関係の本を少し読んでいたのでSAMさんとの話は面白いと思う話でした。
しかし話しながらSAMさんは私が今まで出会った精神障碍当事者とはかなり違っていました。当てはまる言葉か分かりませんが学力レベル?は可也のモノでした。性格的にも話の端々にも几帳面さが出るほど几帳面な人でした。私とは真反対ですので余計にその面が強く見えました。話しながら、この性格で、今のこの複雑で優劣をハッキリ付けたがる世の中で生きて来たのはシンドかっただろうな、と思いました。
それ以上に思ったのは、これほど物事の考え方、捉え方、整理の仕方、世の中の事象を体系的?に考え、取らまえる精神障碍当事者は私にとって初めての人でした。
そのSAMさんが書きあげ、まとめた「精神障碍当事者のための地域で送る快適自立生活」はSAMさんの人間的なもの全てのモノの表約した物だと思います。
お世辞ではなくこの精神障碍者の自立に関する本、資料等はまだ数少ないと思います。もっともっとこう言う関係の冊子、資料、書籍が多く必要だと思います。
身体障碍に関する自立、、、の書籍はある程度目にします。私も若い頃そう言う書物はそれなりに読みました。自分の生き方の参考、道標にもなりました。
精神障碍当事者の社会への自立は本当にまだ手探りの社会状況だと思います。それは一重に精神障碍当事者への差別と偏見にもとずく結果です。これは当然私も含めた社会全体を構成するものの責任です。
身体障碍者の差別もそうですが、精神障碍者の差別、、もこれは当事者自身にはなんら原因起因は有りません。99%以上は当事者たちを取り巻く側が起こすもの、それが差別であり、偏見であり、今の社会です。
SAMさんにはもう少しの人生の時間、それらを是正する活動を続けてほしいと思います。時間をかけて、ゆっくりと続けてほしいと思います。
自立生活センター宇部
代表 野村和志
【編集後記】
私は、下関の稗田病院の敷地内の援護寮ヒエダに入所して統合失調症の病気と障碍に覚知しました。その頃、何のきっかけなのか分かりませんでしたが、突然統合失調症の勉強を始めました。私は、3回目の退院をしたその足で、下関の援護寮ヒエダに入所しました。私は、入所期限の3年後に合わせて、援護寮ヒエダ新聞を編集しながら、精神病関係の事を勉強しました。この頃から病気と障碍に覚知し、病識を持ち始めました。私は、援護寮ヒエダ新聞の編集で、病院、保健所に行き新聞の取材を始めました。このニュースレターの編集で苦しみました。当初、新聞の紙面は、赤鉛筆で殆ど真っ赤に添削してありましたが、泣き言は言いませんでした。私は、続ける期限を1か月、3か月、半年、1年、3年と決めていました。ニュースレターを止めようとは思いませんでした。ただいかにして続けるかを考えていました。しかし、3日坊主のSAMはニュースレターを結果的には3年間編集し続けました。そして、そのニュースレターで「精神障碍者自立生活マニュアル」をキリン福祉財団から事業助成を頂き、制作製本をしました。
私は、高校を卒業して就職した会社で口やかましく言われ続けた総務課長のTさんが私の餞(はなむけ)にくれた言葉「責任ある行動を」を思い出します。その課長は、私の才能を認めてくれた唯一の人でした。仕事を辞めないでいたら、その後はどうなるか楽しみでした。しかし、今の仕事の精神障碍当事者の自立生活支援は私の天職だしなー・・・・・・でも仕事のやりがいは、今の仕事のほうが自分には合っていると思います。今となっては、過去は変えられない代わりに、SAMは未来(社会)を変える・・・・・
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