メンタルにゅーすVol.193

メンタルにゅーすヒエダ

 

「当事者の皆さん親の生きている間に自立生活を始めよう」

2015年  Vol.193

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 SAM

Tel(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL      http://members.jcom.home.ne.jp/s-cil/

(SAM)の自立について少し話しましょう。私は、3度目の入退院の後に下関の生活訓練施設援護寮ヒエダに入寮を機に、自立生活を目指しました。実は、3度目の入院が措置入院で4年弱と長かったので、私自身にこれからの人生を考える時間を神様から頂いたと、自分のこれからの人生を模索していました。援護寮入所のきっかけは、3度目の入院で患者仲間に援護寮ヒエダのパンフレットを見せてもらったのが始まりです。当時、援護寮の話を聞くと、患者仲間の数人が入所経験がありました。私は、援護寮って、寮の職員が日中、監視して調子が悪いメンバーを入院させるのではないかと、邪推していました。

それで、病院から外出の許可をもらい、援護寮ヒエダの見学をしました。清潔な建物で、元は病棟だったらしいです。すぐに入所の手続きの書類を頂き、入所の手続きを行いました。実は、私の主治医が紹介してくれた援護寮が援護寮ヒエダでした。私は、援護寮ヒエダに運命的なものを感じ、入所の手続きをしたことを覚えています。病院には退院後のドラッグ管理の練習の許可をもらいました。後は、病院の私物を宅急便で送りました。「立つ鳥跡を濁さず」と申しましょうか、まがりなりにも4年弱お世話になった病院でしたので、部屋の掃除、病棟の看護師、患者仲間への挨拶等をして病院を退院して、その足で援護寮ヒエダに向かいました。

 実は、援護寮ヒエダに来る前に自分のこれからの人生を考えました。父は、私が23歳のときに亡くなりました。母だけが、私が統合失調症を罹患した事で大変心配しておりました。私は、一人暮らしが出来るかどうかわかりませんでしたが、とりあえず援護寮に入所しました。寮生は、昼間はデイケア、福祉工場、授産施設等の仕事に出かけていました。寮生のメンバーさん、寮職員、稗田病院の職員と主治医に慣れるのに20日間くらい、昼間何もせずに過ごしていました。その後私は、稗田病院の敷地内にある援護寮ヒエダで生活し、職場はひえだランドリー(福祉工場)で働いていました。ひえだランドリーで2年間働き、一般就労しました。それが現在でも勤務しているCIL(自立生活センター)下関NPO法人らいとです。幸い上司のKや同僚にも恵まれて、今年で13年目を迎えます。勤務歴も健常なときの5年を超えました。統合失調症を患ってからは仕事が続かず、1週間くらいで仕事に行かなくなっていました。ですから、CIL下関で12年間勤務しているのは記録破りで、現在も更新しています。職場では、精神の当事者職員の私が入社する事で、上司や仲間の同僚が快く迎えてくれて幸せでした。上司・同僚が声掛けをしてくれて、すぐに皆にも慣れてきました。今、ここ12年間を振り返ってみてもCIL下関での仕事が13年以上続いているのは奇跡と言うほかありませんね。しかも、時々刻々と勤務年数は更新されています。まさに、ミラクルですね。

援護寮ヒエダからCIL下関に通勤して1年が経ったのを機して援護寮を退所しました。

 一人暮らしが実現しました。自分のペースで生活できるのは気が楽です。規則正しい生活を目指して、毎日を送りました。食事も3食摂るように気をつけていました。一人暮らしでは、栄養学的にバランスの取れた食事は出来ませんでした。例えば、ご飯と焼きそばとか炭水化物と炭水化物とかを食べていました。お金の管理、ドラッグ管理は出来ていましたが、バランスのいい食生活はちょっと自信がありませんでした。曲りなりに自立生活センターに勤めていますので、自己決定・自己実現・自己責任を担って生活できるように、ボチボチ自立生活の船出が始まりました。自立生活は不安がありましたが、いざ実践してみれば案外、簡単でした。整理整頓・掃除・調理・洗濯・ドラッグ管理・金銭管理など何とか自立生活をしている自分を確認しながら生活・仕事をこなしていました。どうしても頭の中で考えることは難しくとらえていましたが、いざ実践してみれば簡単にできます。毎日同じことの繰り返しですから、2,3ヶ月もすれば日々のルーティンワークも慣れてきました。あくまで、ボチボチ自分のペースで生活・仕事をこなしておりました。

 平成2092日に結婚式を挙げました。結婚8年目に突入しました。夫婦喧嘩といえば、2,3回しました。口喧嘩で言い合い程度の喧嘩でした。義理の父がよく言っていたのは、喧嘩をしたらすぐに和解しなさい、後にひきずるのはよくないと口をすっぱくして注意されました。それ以後、仲良く喧嘩して、仲良く和解しました。私が、妻に感謝したい事は、結婚してからインスタント食品を食べた事がないことです。調子が悪く家事が出来ないときは、声をかけてくれれば私がやるので気にせず声をかけるように妻に念押ししています。私は、家事は妻と同じ程度できますので、ほとんどルーティンジョブのようにこなします。「もし喧嘩をしたらすぐに和解しなさい、後に引きずらないようにしなさい。夫婦共に仲良く生活しなさい」と義理の父に言われます。妻の実家に2人で時々行きます。義理の父・母は快く迎えてくれます。有難い事です。

【編集後記】

 私達夫婦は、喧嘩もしますがすぐに和解をします。後に引きずる事はありません。順境な時も逆境な時も、何か問題があれば夫婦協力して立ち向かいます。問題を解決すれば、仲良く快適に生活しております。障碍を持っている事で、健常者と特に変わった生活はしておりません。家庭は夫婦の共同生活の場です。お互い気持ちよく生活が送れるように、静かに穏やかな生活が送れればいいなと思います。

 私が一人暮らししていたときには、11000円の食費代を決めていました。家事は一人暮らしの経験がありますので、妻が調子の悪いときにはSOSを出してくれますので私が家事をします。気にせず声をかけてくれと妻に伝えております。精神の当事者が自立生活する中で自分が困ったり、調子が悪くなったら、SOSの救難信号を自分で出せて相談できる機関・人を持つ事は自立生活を快適に続けるコツですので気をつけてください。

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