メンタルにゅーすVol.195

メンタルにゅーすヒエダ

 

「調子が悪くなったら」

2015年  Vol.195

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 SAM       

Tel(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL   http://members.jcom.home.ne.jp/s-cil/

 私は、毎日生活していく中でもし調子が悪くなったらと、いつも持ち歩くものがあります。2日分の定期薬、頓服、薬の処方箋、障碍者手帳、お薬手帳です。これらを小バックに入れて持ち歩いています。それから、携帯電話で番号を調べるのが無料の手続きをしています。知らない町に行ったとき精神科病院の場所をまず調べています。

 現在、出張に行ったとき、大きな病状のゆれはありませんでした。それでも、頓服は使ったことがあります。基本的に人の多いところに行くときは頓服をあらかじめ服薬しておくことがあります。事務所にお客さんが来るときなども頓服を服薬します。こういったとき、幻聴・妄想が活発に発現します。主治医に頓服は、12回までといわれていますのでそれを守っています。

 統合失調症を発病して退院して家に帰ると服薬が遵守できません。それでも、私は、結構几帳面なところがありますので、主治医が「服薬を守りなさい、そうすれば病気や障碍が穏やかになります。」と通院のときに言われたら、私は服薬を遵守していました。同じ年に発病・再発を繰り返してあわせて半年入退院してから15年間状態の浮き沈みがありましたが服薬だけは遵守していました。服薬を守ると確かに入院はしませんでした。

下関市に移住してからの、この15年間は私に病識があったのではありません。何にも考えずに主治医の指示に従っただけです。

 精神薬の服薬が続いたのには理由があります。私が調子の悪いときに母が私の代わりに病院に行って主治医に私の状態を報告して、薬をもらいに行ってくれたからかもしれません。後に、援護寮ヒエダに入所して、統合失調症の勉強をしていますと思い出して分かりました。援護寮ヒエダを退所してから何年かして抗精神病薬をかってに減薬していました。急速な減薬で調子を崩して3ヶ月入院してしまいました。医者でもないのにかってな判断で服薬量を変えていました。今年が、最後の4回目の入退院から8年目になります。服薬・通院を守っております。何とか病気と障碍に対処して生活しています。自分が、山陽小野田市の実家で呆然として生活していたことを思い出します。色々な思考が私の頭の中で活発になったりゆるやかになったり様々な思考が現れたり消えたり、何の目的もなくボーっとしていました。

 今年私が、統合失調症を発病して33年経ちました。私は、そんなに多くの知人はおりませんでしたが下関で過ごして14年が経過しました。私は、下関に住んで自分の信用を積み上げてきました。それでも、何とかボチボチ生活をしています。CIL下関での仕事は12年が過ぎ去りました。多くの仲間と知人と上司・同僚にめぐり合いました。私も少しは努力しました。ほんのちょっとの努力でした。私は、職場では統合失調症の啓蒙に明け暮れました。

 今も編集している「メンタルにゅーすヒエダ」は12年目になりました。自分でもこんなにニュースレターが続いて不思議に思います。10年一昔といいますので、よくこんなに続いています。編集をしている私には、時間の感覚がありませんでした。なんとなく勢いではじめたニュースレターはこれからも続いていきますよ、皆さん・・・・・・・・・・

 私の調子が悪くなるときは決まって断薬していました。これは100%間違いはありません。考えても考えても調子が悪くなるときは決まって服薬をしていません。ものの本や主治医・看護師に尋ねても服薬・通院を守って生活しなさいと言われます。服薬は再発の防止と状態の安定化の効果があります。私は、お調子者です。時々、舞い上がって服薬を忘れることがあります。でもここが踏ん張りどころと、気づいたときに服薬をしています。服薬の遵守は、いつも大丈夫と慢心していると調子が悪くなります。私は、昼食後の薬をよく忘れます。ですから、服薬は昼食後の薬を主治医に相談して夕食後に変更してもらいました。服薬の趨勢(すうせい)は回数が少ないほど当事者には服薬忘れがありません。

 こうやって、状態が落ち着いているときは冷静な判断が出来ますが、状態が少し上がり始めてきたら、自分で気づかなかったですが、現在は気づくようになりました。前回の入院は服薬量を安定量に戻しましたが、遅すぎました。しかし、私は自分に必要な抗精神病薬の至適用量(安全性と有用性を考慮して、薬剤の効果が最も得られる用量)が分かりました。これは私にとって最大の収穫です。

 今も、多くの仲間たちが調子を崩して入院しています。私は、運がよかったのか生活訓練施設援護寮ヒエダで自立生活の訓練をしていました。幸いにも入所中に一般就労して1年間ほど援護寮から通勤していました。少し自信がありませんでしたが何とか一人暮らしをしていました。現在は結婚しています。こうやって、連れ合いと一緒に生活をするために色々努力していますが、私が調子を崩すと連れ合いが悲しみますので服薬・通院を守りながら生活しています。この調子で服薬・通院を守って連れ合いと仲良く生活していければと考えています。

【編集後記】

 私は、人に自慢することがあります。今まで何かを実行して続いたことが下関に来るまでありませんでした。しかし、援護寮に来てから始めたことは続けています。今まで何か始めると決まって三日坊主でした。援護寮では「援護寮ヒエダ新聞」、自立してからは「メンタルにゅーすヒエダ」を編集しています。前者は3年、後者は現在進行形で12年目に突入しました。この間に私を知っている人はいますが援護寮に来たときからの職員はもう、稗田病院の敷地内にはいません。時の流れなのか私には分かりません。私は12年稗田病院に通院しています。様々な職種の職員にお世話になりました。普段当たり前だと考える精神科病院の通院も私には呼吸をする酸素の摂取のようです。呼吸は生きていくために必要です。当たり前に呼吸していますが酸素様有難うという人はいません。服薬・通院も当たり前のように毎日のルーティンワークのようで、当たり前のことです。今は呼称が精神分裂病から統合失調症と呼ばれています。精神分裂病より差別・偏見・汚名も少し弱くなりました。私は、多くの精神の当事者たちが穏やかに静かにに過ごしていける地域社会の実現を考えています。イタリアでは精神科病院が解体されました。当事者も地域移行しています。日本では、これから精神科医療はどうなるのでしょうか。少し心配になります。

トップページに戻る