メンタルにゅーすVol.198

メンタルにゅーすヒエダ

 

「親亡き後に備えて@」

2016年  Vol.198

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 SAM

Tel(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL   http://blog.livedoor.jp/npo_light/archives/cat_8979.html

 私は、統合失調症を抱えて生きていくことに何か理由を考えていました。2343歳まで生活保護を受給していました。私は、生活保護を受ける事が自分の足かせとなっていました。かといって仕事は、上手く続きません。幻聴と妄想がありましたので、仕事に行くと誰かの声で私の悪口を言う幻聴や、被害妄想がありました。それが怖くて、辛かったです。その頃は、それらが統合失調症の症状の幻聴と妄想だということも分かりませんでした。ただ、私は下関の援護寮ヒエダで精神病の勉強をしてから、それらが統合失調症によくある代表的な症状だと分かり、ありえない症状だと分かりました。

 私は、発病して20年後に精神病の勉強をして、少しずつ病識らしきものが身についてきました。そうやって身につけた病識も、調子を崩して、服薬・通院を怠ると消えてしまいます。病識を持ち続けるためには、調子を崩さないように普段から、服薬・通院を続ける事が大切な事です。そうやって、自分にとって長い付き合いとなる統合失調症と共存(向かい合う)することが、私にとって地域社会で生活するための大切なことです。

 援護寮ヒエダで私は、統合失調症の勉強をしながら、残存症状の幻聴と妄想に対処することを身につけていきました。地域社会で生活するには、それらと向かい合う事が私にとっては大切な事です。主治医に診察のとき尋ねると、病状が残存してもそれらに対処して地域社会で生活している当事者は、多いよと言われました。私は、必死になって精神病の事を勉強しました。病気のことだけでなく、医療・制度・精神保健福祉・社会資源・就労・生活など広く浅く、場合によっては狭く深く自分で勉強しました。

 こうやって精神障碍に関することを勉強すると、自分に残存した幻聴と妄想のことが分かりました。ちゃんと勉強して、それらの対処法を身につけるのに、下関で10年経ってやっと、それらの全貌が見えてきました。自分にとって長い付き合いとなる統合失調症について、またそれらを受容する事で私の身に付いた知識を、仲間の精神の当事者たちと共有することを考えて「メンタルにゅーすヒエダ」と言うニュースレターを編集しています。メンタルにゅーすは13年目を迎えます。読者の方の何人かが、ホームページにしたらどうかと私にアドバイスしてくれました。何とか勉強して自分でプログラムを身につけて、ホームページを作りました。現在進行形でメンタルにゅーすは続いています。いまは198号になります。メンタルにゅーすはこれからも続きますよ。

 下関での生活も16年目を迎えます。自分の病気と障碍に対処して、落ち着いてくると私は親亡き後の備えを考えてきました。母は、次第に認知症が重度になり、私の名前が分からなくなりました。その為に私のことを、小さな頃から呼びなれた「兄ちゃん」と呼ぶようになりました。母は、私の名前が思い出せないことが悲しかったのだろうと思います。

 私は、援護寮に入所して約一年後に墓を建立しました。母は、私が墓を建立したので喜んでくれました。これで母も、自分が安心していずれは墓に入れるとよく言っていました。私は、そのときの母の喜んでくれた笑顔を忘れません。

 自分が歳をとるということは母も歳をとります。母が生前私によく苦言を呈していたのは、@「お金の管理が出来るようになりなさい。」A「ちゃんと結婚しなさい。」と言う事です。今ではお金は、きちんと貯金をしておりますし、お金の管理が出来るようになりました。結婚もしました。母の言う事は守り解決しました。母の生きている間に実現しました。母は安心して天国に行きました。私は、時間を作っては墓参りをしています。私は父と母のお陰でドラマティックな生活を送れました。23歳のとき統合失調症を発病して紆余曲折を経ながら、現在仕事を持ち、結婚して妻と何とか生活をしています。

 私の場合、その時々で自分で考え・自己決定して実現してきたと自負しています。母の生きている間に、墓を建立し、結婚もしました。お陰で母は、私の心配はしなくなりました。私は、学生時代は勉学に励みましたので、母にとって自慢の息子だったかもしれません。私の心の中に整理してある記憶を探ると、母の笑顔が現れます。しかし、統合失調症を発病してからは、母に心配と迷惑をかけました。私の場合、たまたま援護寮に入寮して、一般就労・一人暮らしを始めました。節目、節目に自分の頭で考えて、反芻しながら自分の進路について自己決定・自己実現・自己責任をモットーに過ごしてきました。今は連れ合いと穏やかで静かな生活を送っています。天国の私の母は、もう私のことを心配はしないでしょう。それよりも、弟が40代で精神病を発病しました。私の場合、自然に母の苦言を時間をかけて解決しました。私のことは、心配しなくなりましたが、息を引き取るまで母は弟の事が心配だったでしょう。

 

【編集後記】

 私は、自分にとっての多くの課題を整理しながら、連れ合いと生活しています。穏やかで静かな生活を送っています。妻とは順境なときも逆境なときも仲良く生活しております。義父は、私たちに口を酸っぱくして話す事は、喧嘩をしてもいいけどすぐに仲直りしなさい。時間を置くと良くないのでなるべく早く和解しなさいということです。

 私の場合、母が生きている間に彼女の提言@お金の管理が出来るようになりなさい。A結婚しなさい。これら二つのことを何とか解決しました。母は、私達夫婦の事はその後次第に、特に苦言は呈しなくなりました。それで、私のことには何も言わなくなりました。そうは言っても母がグループホームに入所した当初は、母も私のことが心配だったのでしょう。その後、母を何とか安心させるように9回裏二死満塁でホームランを打ったかのように49歳の私に幸運がやってきました。つまり結婚しました。お金の管理は、援護寮で金銭管理をするために家計簿を付けていました。結婚した後今でも、私は家計簿を付けています。時間はかかりましたが、結果的に私は母の心配を解決しました。正に今回のタイトルのとおり、ギリギリセーフで親亡き後の備えが整った訳です。

トップページに戻る