統合失調症に罹患して、今と昔の私の比較をしてみようと思います。下関の援護寮ヒエダに入所してからの私は、統合失調症(=精神分裂病)のこと、精神障碍のこと、医療と福祉のこと、病気と障碍へ対処すること等勉強を始めました。今思うに、私の状態は大して今と昔で変わらないのではないだろうかと考えます。長く病気と障碍を抱えて対処していること、自分の罹患している統合失調症のことを援護寮ヒエダ新聞で3年間、勉強しながら編集をしていました。それで、少しずつ知識をつけて対処しているのだと思います。私は、自分の調子に対処できるのはどうしてだろうと思います。幻聴や妄想があっても、自分で何とか対処をしています。服薬と通院が私の調子を保ち、再発の防止と状態の安定化を続けて、私を瀬戸際で守っているのだろうと思います。服薬だけでなく、環境・人間関係・仲間・同僚の配慮、主治医や看護師の皆さんの見守りがあることで、私が安心して仕事や生活を送れることが出来ています。
私が統合失調症を発病したのは、1982年2月のことです。徘徊や幻聴・妄想がありました。奇妙な言動が目立ち始め、職場の上司が気付いて山口大学の付属病院に連れて行かれました。診察をして統合失調症だとのことですぐに入院が決まりました。4ヶ月弱の入院で退院できました。退院しても、薬の影響なのか体がだるく1日の殆どを布団の中で寝ていました。自分の身に何が起きているのか、統合失調症と診断されていますが、それがどのような病気なのか考えもしていませんでした。私が、統合失調症に罹患して奇妙な声や妄想がありました。それらは、間欠的に私のことを非難する声でした。私は、統合失調症に罹患して病感・病識が働く事もなく、7,8年自宅で臥(ふ)せっていました。精神薬の鎮静効果がかなり効果を発していましたが少し強かったのではないかと私は今ではそう思います。23歳で統合失調症を発病して、今が57歳ですから34年病気と障碍を抱えて、服薬をしております。
今は、残存する病気と障碍に向かい合って対処しています。私は、心の中に見ず知らずの人、誰か特定できない声がします。その声は、私のことをよく知っています。私はその声が怖くて怖くて、仕方がなかったのです。それで、自宅で7,8年も外出もせず臥(ふ)せっていました。私だけに聞こえる声や音が幻聴だと分かったのは3度目の入院で看護師に教えられました。自分が精神の病、統合失調症に罹患したのだと少しずつ受容していきました。今なら私は自分を冷静に観察し、仲間のピア・カウンセラーとセッションしたりすることもできます。またその当時、主治医に聞いてみると分かりやすく説明して教えてくれました。これが3度目の入退院でした。ここで、退院したその足で援護寮ヒエダという生活訓練施設に入所しました。
統合失調症は晩期寛解するらしいとのことを勉強していると本で学びました。私については、どうなのかなーと考えます。病気と障碍には対処していますが、病勢は昔と今ではたいして変わってないように思いますが、医者でもない私が勝手に判断してはいけない事だと思います。下関に来て15年、一般就労して14年病気と障碍を抱えて仕事や生活を何とか送っています。病気と障碍の対処としては、下関に来てから幻聴対策として、様々な対処法を試行しています。病棟の中でも幻聴対策にウォークマンを聞いている患者も何人かいるので、人間の考える事は変わらないなーと思います。
最近の診察のとき気付いたのは、昔は通院しているときに待たされるとイライラして外に喫煙に行きました。それで、自分の番に私がいないときは、私の診察は一番最後に飛ばされていました。多分、受付の看護師が私の所在がわからないので飛ばしたのだろうと思います。診察で待つ事に、今ではイライラすることもありません。私は、タバコを止めて9年目になります。イライラもなく、診察の待ち時間も静かに私の診察まで待っています。これは、私も、晩期寛解しているのかなーと思います。しかしこのとき、待合室に座っているときに、私は幻聴と妄想に苦しめられている事が多いのです。あえてじたばたせずに、淡々と平気な顔で残存する幻聴と妄想に向かい合っています。ボチボチ、やっていきましょう。ボチボチ・・・・・と・・・・・
【編集後記】
メンタルにゅーすは、私の一人暮らしを始めて半年後くらいから編集を始めました。もうすでに一人暮らしをしている人、一人暮らしを目指している人のためにニュースレターを編集しています。ある外来の看護師さんがメンタルにゅーすをホームページにする事を熱心に勧めてくれました。2年くらい勧めてくれましたが、私には、ホームページの作り方が分かりません。1年くらいゆっくりと記述式言語(HTML)の勉強しながら確実にプログラムを作りました。メンタルにゅーすヒエダのホームページを作ってからニュースレターで紙に印刷したもののアナログとホームページのデジタルにしたものと二つの情報伝達手段で仲間に伝える事を平行して表現してきました。
私は、PCは37年前では、就職していたH製作所の研究所で使っていましたが、ここ最近のPCは使った事がありませんでした。ただ、援護寮ヒエダ新聞の発行のときはPCに入力しないといけないので、自然と文字の入力の仕方は覚えてきました。それから、メンタルにゅーすは続いていますのでホームページにしています。今ではメンタルにゅーすは北は北海道から南は沖縄県まで、読者がいるのを最近になるまで気付きませんでした。
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