メンタルにゅーすヒエダ

 

PSWからみた

SAMのこの16年」

201875日  Vol.255

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 SAM

TEL(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL    http://blog.livedoor.jp/npo_light/archives/cat_8979.html

【光陰矢の如し】

  16年間というと、生まれてきた子供が小学校・中学校と進んで、高校に入学したり社会に出たりしているくらいの年月です。SAM氏と出会ってから今に至るまで、それほどの時が経っていると思うと、実に感慨深い。しかしこの16年間、「光陰矢の如し」の言葉の通りに、ひと時たりとも無駄に時間を費やしていない姿を目の当たりにしてきました。

 出会った頃の氏は、医療機関と地域社会との中間施設である生活訓練施設(援護寮ヒエダ)の「入所者」で、私は「施設スタッフ(相談員)」という立場でした。丁度、氏が援護寮に入って2年目で、福祉工場で働きながらCIL下関での活動を始めていた時期の出会いでした。

 その頃の印象は…「よう勉強してる人やなあ…」。入職直後から氏の担当スタッフとなったこともあり、十数名いた入所者の中でも比較的コミュニケーション機会も多かったような気がします。

 とはいえ、その頃から自立度の高い人だったので、あまり私のほうからあれやこれやと支援した記憶はありません。しいて言えば、その頃から氏が編集を始めていたニュースレター『援護寮ヒエダ新聞』の添削がメーンだったような…。

 担当スタッフとしての支援が増えたのは、退所が迫った頃からでした。単身生活を送るための住居探しでは、当時下関市内の不動産業者でも障がい当事者への理解度が低く、契約段階で苦戦して一緒に憤った思い出が残ります。また、そのことに伴いCILでの勤務体系を段階的にフルタイムにすることをお願いしたことなども思い出されます。

 そんな風にして始まった氏の下関市での単身生活が、やがて夫婦二人での生活になり、気づけば還暦間近。とはいえ、その歩みはまだまだ続くはずと信じつつ、一旦ここまでの氏の歩みを振り返る機会として、私に筆が委ねられたのだろうと勝手に推察しております。

 

【当事者が発信するということ】

 最近でこそ、障がい当事者が様々な場面で自分の主張などを発信することも増えてきましたが、その当時はまだまだ稀有なことでした(もっともSAM氏の場合は、自分の主張を声高に訴えるのではなく、多くの人に平たく当事者にとって必要な情報を伝達していくーというスタンスですが)。氏の手掛けてきたそれは、我々専門職として働いているスタッフにとっても、目を見開かされるものでした。それは、自分自身が社会生活に移行しようとする中で、本当に必要と感じていた制度や情報について一つずつ丹念に勉強し、それを書き連ねていったという点で、当事者に密着した内容だったからです。

 我々専門職が支援業務をしていく中で、場合によっては知らず知らずのうちに通り一辺倒に流れに沿ってしまっていないだろうか?個々人で変わってくるニーズに対して、しっかりと応えることができているのだろうか?そのようなことを気づかされるきっかけとなったように感じています。

 措置から契約へー。この16年間の間で障がい福祉施策も様々な法改正を経て、自己実現・自己決定をして施設から地域生活へという流れが促進されています。我々支援者側も、当事者の思いが実現していくための「支え手」としての意識を、しっかりと共有していかなくてはなりません。

 

【これから…】

 『メンタルにゅーすヒエダ』は、SAM氏が筆を折る気持ちにでもならない限りは、まだまだ続くはずです。ご本人として、今後どのような編集方針をお持ちなのかは、私には分かりません。

 日本という国の形が変化していく中、障がい福祉施策は高齢者施策とも相まって大きな変革期にあります。そのような中、「当事者目線」という基本姿勢は不変のままで、常に時代に沿ったテーマで編集してくださることを期待してやみません。出会った当初の「利用者」「スタッフ」という関係性から、地域の障がい者福祉を担う「仲間」としての現在の立ち位置で、引き続き応援していきたいと思っています。これからもよろしくお願いします。

                         

(文責:P of Mはまゆう 土井)

 

【編集後記】

 SAMもこの16年を振り返っています。16年と言う年月もあっという間のひと時でした。もうそんなに時間が経過したとは実感がありません。援護寮に入所して精神病、精神保健福祉の勉強をしたのが懐かしく思います。分からないことがあったときは、援護寮の職員をつかまえてよく質問していました。確か私は、43歳のときに援護寮に入所しました。今気がつけば私も還暦近くなっているのは、当然の時の流れではないでしょうか。

 私が「援護寮ヒエダ新聞」を編集したときのことが思い出されます。編集した原稿は、添削され殆どが真っ赤でした。あの頃が懐かしく思い出されます。援護寮で何の気の迷いか始めたニュースレターの「援護寮ヒエダ新聞」から16年が経過しました。私の前を、多くの医療スタッフ、福祉従事者、当事者仲間が過ぎ去りました。今でも交流を持っているのは当事者のFさんですが私と干支が同じで一回り違いますので70歳は超えています。こうやって年月が経過すると、過去のその時期その時期のことが思い出されます。良いこともあり悪いこともありました。たくさんの知り合いが私の前を通り過ぎました。私自身、一般就労して仕事の付き合いで知り合った人のほうが多く、当事者仲間との交流はだんだん疎遠になってきました。社会復帰を目指し援護寮に入所した頃を思い出します。ニュースレターを援護寮で編集を始めて現在は「メンタルにゅーすヒエダ」へ続く、下関に移住して16年長くもあり短くもあるひと時を過ごしています。光陰矢の如し・・・・・

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