最近、生活や仕事でいらいらすることが多いです。この気分は、病気や障害のせいかと始終考えていました。つまり、私は自分のこのいらいら感が、また病気の増悪へと到達していくのか、不安でした。
これは問題であると考えに考え抜いておりました。主治医の診察のときに、かなり食いついて診察というより、もうカウンセリングでした。結果分かったのは、私の本来的に持つ性格というか性質のせいだとすぱっと主治医に原因を言い当てられました。
それは、私の超四角いものの考え方・視野の狭い一方的なこだわり・自己中心的なことが原因で、「謙虚さ」が無いことだと気がつきました。そういえば、私は無茶苦茶プライドが高いです。だいたいが、おべんちゃら・人によく思われる・人を褒める・人に頭を下げることは、まったくありません。分からないことのほとんどは、自分で調べ考えて結論を出していました。
主治医には、精神症状を何でもかんでも病気のせいにするのは良くないと言われました。そう言われると病識を持った下関でのこの7年間はずっとそのようなものの考え方だったように思います。このようなものの考え方は、実は当事者が自分自身にも差別と偏見を持っているからではないでしょうか?そんなことってありませんか?
いろいろと考えた結果、私はつぎのようなことを思い浮かべました
1. 型にはまった一方的なこだわりを持たない。
2. その場の状況・場面で柔軟に生きてみる。
3. 自分で自分を苦しめて生きない。
4. 素直になる。
5. 対人関係では相手の気持ちを考えて、立場をかえてみる。
6. 物事は謙虚になって、事に当たる。
7. あまりなんでもストレートに話さない。
8. いつも、一息余裕を持って!
9. 「少し待ってください。」と言えるようになる。
以上9項目です。
ちょっと堅い話だったので、津田塾大学創設者、津田梅子の詩で少し柔らかくしてメンタルにゅーすを閉めたいと思います。(詩のタイトルは忘れました。すいません!)
自分のことを
考えすぎてはならない
永遠というものに
照らして自身と
自身の仕事を
眺めることを
学ばねばならない
ひとつの種子がつぶれても
砕かれても
新しい芽がまた
生えてくるだろう
【編集後記】
私の人格は、私の知っている限りのもので一番硬い、形の変わらない強固な永遠普遍なもので作られています。それは、私の全人格背景からできあがったものです。これは変わらないものかもしれません。
それはそれとして、世の中をもっと楽に眺めて、リラックスして生きていかねばならないといつも考えていました。謙虚に人に接して、相手の気持ちを考えてあげないといけないと思いました。今回はいい経験になりました。私は、考えることが大好きです。論理的に、コンピューターのようにデジタル化して白黒はっきりしていく傾向があります。そして、頭の中の引き出しの中にきちんと整理して、いつでも瞬時にデータの出し入れができることを目指しています。まるで、私は論理だけのコンピューターになりたいみたいです。煩わしい人間関係を考えることは嫌いです。それでも、私は人間です。これはまるで矛盾しています。
卵が先か鶏が先か、まるで曼荼羅で考えても結論が出ませんので考えないことが宜しいようで・・・・・・・・・・・・・・・・
昂揚(高揚):精神・気分などがたかまること
焦燥(焦躁):いらだちあせること
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