メンタルにゅーす ヒエダ Vol.197 「今振り返れば。」 |
2020年5月20日 Vol.297 CIL(自立生活センター)下関発行 ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 SAM TEL(083)-263-2687 FAX(083)-263-2688 E-mail s-cil@feel.ocn.ne.jp URL http://blog.livedoor.jp/npo_light/archives/cat_8979.html |
SAMが物心ついたのは3歳くらいでしたでしょうか。自宅から酒屋まで200mくらいでしたが、初めてのお使いが酒瓶に焼酎を3合買ってくるように言われました。その歳では物を買うのにお金が必要だと概念がありましたので、「父ちゃん、お金は?」と尋ねました。SAMは父ちゃんの言った言葉を今でも覚えています。「つけちょってくれ」と言えといわれました。酒屋に行って、「○○ですけど焼酎を3合頂戴」と言いました。その酒屋では父の名前は知っていましたので、「ケンちゃんの息子かねちょっとまっちょき今入れるけえね。僕大きいなったね」と言われました。そして主人に「父ちゃんがお金はつけちょってくれって言われました」と話しました。主人は分かった、僕またおいでと言われたことを今でも覚えています。
つまり簡単に言うと父ちゃんは酒が飲みたいがお金がないのでどうしたらいいか考えてSAMを利用したのです。3歳のSAMが酒瓶をもって焼酎を3合買いに行ったら必ず、焼酎が飲めると父ちゃんは確信していました。父が昼に酒を飲むのは毎度のことで、SAMがお使いに行くのは毎度のことになりました。SAMが小学校2年くらいの時に何故よその家庭では父親が昼間働きに行っているのに私の父は働いてないのかわかりました。父は難病のリウマチに罹患していました。それで手や関節が変形していました。それで痛みを抑えるのに最初は日本酒を飲んでいましたがそのうち安い焼酎を飲み始めました。そういったいきさつが分かったのが小学校2年の時です。今思い出すと父がなんとずるい人だったのだろうと思います。
もちろん仕事を父はしてなく酒を飲まないときは猫のように静かで、酒を飲むと大虎になりました。私が保育園の年中組になると生活保護を給付されていました。それが毎月5日だったので、その日に父は風呂に入りひげをそって生活保護のお金を受け取りに行って、その日はそのお金で深夜まで酒を飲みに行って帰ったら、家族を起こして殴るけるを繰り返していました。特に母とSAMには虐待がひどかったです。だから毎月5日は徹夜で家から出て外にいました。そして小学校に行っていました。なんと無茶苦茶な父でした。虐待は私が3歳ころからありました。何の理由もなく父の気分で殴るけるの繰り返しでしたので、父が怖かったです。一番怖かったのは、お前を殺すと言われて包丁を持って追いかけられたときです。このようになんと無茶苦茶な父でずる賢い人でした。
私が大きくなって高校生の頃でしたでしょうか、力では私を抑えられなくなってきたので牛刀で体を3か所切られました、その頃の医者は、どういった状況で切られたのか聞くこともなく、もちろん警察に報告もないままでした。現在なら大事件で、福祉施設に保護されていたでしょう。
このような生活環境でしたので、父を反面教師のように見ていましたので不良になることなく、タバコを吸うこともなく。勉強をよくして優等生でした。同級生からはまじめで努力家で頭が良いと言われていました。SAMが小学生の高学年になると、自分は父のようにならないと考えるようになり、勉強を熱心にするようになりました。そのころ塾がありましたので中学生のころ塾があると言えばクラブの先生も早く帰るように言っていました。私は塾に行くような家庭ではありませんでしたので、人の3倍勉強していました。夜8時から深夜の2時まで勉強していました。塾に行く人よりいい成績をとろうと頑張っていました。
中2のときに担任の先生がSAM、H製作所に就職して試験を受けて会社の学校に行けと言われました。高校は工業高校で、就職はH製作所に行きました。会社の学校で精神病の兆候が現れ卒業しても思わしくなく、退職しました。山口に帰って再就職して、その会社で統合失調症を発病しました。その後入退院を繰り返して、下関の援護寮ヒエダでこの施設は病院と社会の中間施設で服薬・生活技術を身につけて、その後施設から一般就労して1年通勤して自立生活を始めました。発病して38年が経ちました。発病20年後に病識を身につけるため、いろいろな制度、病気と障碍のこと様ざま勉強して現在に至ります。就労先が自立生活センター下関・NPO法人らいとだったので、自分の病気と障碍をオープンで働きました、今年で18年目になります。紆余曲折はありましたが、現在も嘱託でまだ働いています。就労が長くなり毎年記録更新中です。
【編集後記】
SAMは小さな頃から生活保護を受けていました。学校で生活保護とは、健康で文化的な最低限度の生活を送る制度の給付と習いましたが、父が生活保護のお金のほとんどは給付日に遣っていたので、最低の最低限度の生活でした。自分はこういう生活はしないと誓い、毎日深夜まで勉強していたのを懐かしく思います。自分の目指した会社に就職して会社の学校に入学し、志半ばで退職し、再就職した会社で統合失調症(旧呼称:精神分裂病)と大学病院の主治医に告知されて、自分の人生はもう終わりだ、一生入院、仕事もできない、結婚もできないと悲観しました。しかし私はCIL下関の代表Kに出会い、前記3項目をすべて覆し退院し就職し結婚しました。今振り返れば良い思い出、悪い思い出がありました。生活は貧しかったです。苦しかったです。ただ母が貧しい生活の中で、SAMこのお金で辞書を買いなさいと言われてわずかばかりのお金をためて辞書を買いました。しかし、そのお金の殆どは母に言いませんでしたが父に取られて酒に代わりました。それでも私は、まじめに学校に行き、勉強しました。しかし、青年の人生を台無しにする統合失調症という病気と障碍を抱えています。幸い、通院と服薬で残存した症状はありますが、なんとか対処して仕事・生活をしています。私は特別な生活をしているわけではありません。服薬と通院を続けているだけです。この実験を自分に課していますが、再入院を13年していませんので、服薬と通院は大事なことだと思います。