メンタルにゅーす

ヒエダ

Vol.326

「妻から教えられたこと」

202185日  Vol.326

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 白夢(SAM

TEL(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL    http://blog.livedoor.jp/npo_light/archives/cat_8979.html

 

忘れもしない令和22020)年1116日月曜日、妻は逝ってしまった。妻の介助をしてちょうど1ヶ月半がたったころだった。私は、介助疲れで前日前々日と私は寝込んでいた。2日間殆ど寝ていたので妻が何を考えていたかわからない。月曜日私の疲れも回復して、朝4時2人とも目が覚めた。妻が早いけど朝食摂ろうといったので同意した。2人ともダイエットしていたので朝はサラダだけ取った。食事をとった後、妻がコーヒ−のむと言ったので一緒に作って飲んだ。久々に馬鹿話をすると妻から笑顔がこぼれた。15分くらい話して自然と話は終わって妻は自分の部屋に戻った。私は妻の介助でたまっていた仕事があったので5時から仕事を始めた。妻にも今日は午前中仕事をするからと話した。それから妻は部屋の片づけをしている音がした。そして、私が妻に預けていた実印とキャッシュカードを戻すから自分で管理してと言われた。何でと私は不思議に思わなかった。久々に妻との歓談だった。5時10分ころ妻の部屋の片付けが終わったのか、ごみを捨てに行く音がしてドアが開いた音がした。それからドアの音がしなかったので部屋に戻った気配がない。それから、妻は投身自殺する8時半まで3時間半近く外で何をしていたのか今私が思い出すにわからなかった。

8時半ころ女性のお巡りさんが来てインタフォンが鳴って、お宅の奥さんらしき人が下で倒れているので安否確認をしてくれと言われました。私はてっきり妻が部屋にいると思いお巡りさんの言う通りに妻の確認をした。部屋には妻はいなかった。妻はどこにと警官に聞いたら、今、済生会下関病院にいると言われていた。それから10分もしないうちに、刑事が上がりますよと今の私の部屋にノートを持って入ってきた。私の聞き込みは5時間くらい続いた。その間に鑑識が勝手に妻の部屋に上がり、妻の部屋で、お金、通帳、債券、遺書などを調べ写真に撮っていた。これも私の同意を一言も取らず。勝手に鑑識が上がりこんで調べた。

取り調べは事件扱いの殺人の見立てで、昨日、喧嘩しただろう、暴力を振るっただろうと鎌をかけてきました。私にはそのようなことをした覚えがないので、否認していました。取り調べしながら、警察官がこのスカート、靴を履いてなかったですかと写真を見せてくれたので、同意しました。最後に妻は何か薬を飲んでいないかというので薬を見せ、統合失調症と、うつの気があり服薬をしていると分かって私は無罪放免でした。

私は妻が気になったので、病院に行こうと取り調べの刑事に言って家を出ていこうとすると、遺体は警察署にあると言われ、遺体の確認にいきました。刑事が警察署まで連れて行ってくれました。遺体は全身の複雑骨折だろう厚い板の上にのせて白いい包帯で巻かれていたミイラのようになっていました。ほぼ裸と想像できましたので、私がたたいたり、殴った後がないか確認したのでしょう。私と妻は事実婚でしたので、遺体を引き取る権利がありませんでしたので、夜1930親族と葬儀屋が遺体を引き取りに来る連絡を聞いて再度警察へ行きました。その時に妻が自分に何かあったら親族に渡してくれと言っていたものを妻の一番お気に入りのバックに入れて渡しました。翌日もお金目の物は全部渡しました。

妻と私は、お互いに不幸があったことを想定して話し合いをしていたのでうまくいきました。予定では、私が先に逝き、妻に見送られると想定していた話でしたが想定外の妻を送ることとなりました。私と妻は122か月の生活でした。妻は、こんな偏屈な私に尽くしてくれました。自分でもびっくりしましたが、喧嘩はほとんどなく、年に23度怒鳴るくらいでした。料理はほとんどできずにいましたが私が教えたり、自分で努力して食事におかずは3品作ってくれと言いましたらそのようにしてくれました。

妻は亡くなるその日まで家事ができなくなったのに悩んでいました。仕事でも、私のことも悩んでいたように思います。苦しかったでしょう、悩んでいたでしょう。まさか自分の妻が自殺するとは私は思いもしませんでした。

妻には様々なことを教えられました。お金のため方、テーブルマナー、人との接し方、感情のコントロール、部屋の中に花を飾ること、いつも穏やかでいること等など・・・

優しく聡明な人でした。今でも何かに悩むと妻ならどうするか、まず私の頭で考えて一息置いて行動に移しています。妻ならこういうアドバイスするだろうと・・・・・

妻は亡くなるその日まで、私のことを心配していました。私を楽しく元気でいられるようにしてくれました。ここ34年腰が悪いので服をしまうのが難しくなりました。なくなる数時間前に私の服の整理をしてくれていました。数日後、衣装箱の中を自分で整理しようとしたら、きちんと整理してありました。妄想があったのでしょう。なくなる1週間前に来週1週間後に大変なことが起こるから、事実婚から籍を入れようと言っていました。

それをお母さんと弟さんに電話で話していました。再度電話で弟さんからあり、本当に籍を入れるのと聞かれて、今は病状が悪いので籍は入れないと言いました。弟さんは、但し籍を入れるのは私と妻のことだから籍を入れたらとも言われました。

【編集後記】

 私は下関に移住してから心を入れ替えて生活・仕事をしています。誠実に穏やかに人と接しています。なにかで悩んだら妻ならどういう風にやるか、アドバイスをくれるか、しばし考えて生活・仕事をしています。妻は心のきれいな人です。人をうらやましがったり、ねたんだり、不誠実な対応はしません。心のきれいな人でした。病気になる前の健常な頃は、活発で元気でポジティブ思考の人でした。彼女が人の悪口を言うのは一言も聞いたことがありません。私が人の悪口を言うと注意してくれます。もう下関で暮らして、20年になります。妻は、本当にやさしく私の亭主関白を認めてくれました。しかし実際は妻の手のひらの上で、踊らされていたのでしょう。それだから私は妻と122か月生活できたのでしょう。私が先に死んで送られるものと考えていましたが、想定外で妻が先に亡くなり、私が送ることになりましたが、最後の妻の苦しみ、病気の心気妄想(自分が重大な病気になって死ぬかもしれない妄想)を抱えて、ドクターショッピングをして、毎日23か所病院に行っていました。心気妄想を解決する最後の気になる症状は便秘だけ残りました。これは抗精神病薬の副作用です。通じが1ヵ月続けば妻自身安心した生活ができると言っていたさなか便秘が25日目・26日目と続いて、この世をはかなんで逝ってしまいました。妻がどういう気持ちだか本人でないのでわかりません。すごく苦しく・絶望していたのでしょう。妻が逝って私は寂しく苦しいです。しかし私は、故人の遺志を継いでメンタルにゅーすを続けていきます。皆さんお楽しみください。

トップページに戻る