メンタルにゅーす

ヒエダ

Vol.350

「見下されて・・・」

2022920日  Vol.350

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 白夢(SAM

TEL(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL    https://cilsimonosekiraito.wixsite.com/website

 

白夢が統合失調症と知っている人に見下されたり、偏見、罵声を浴びされた経験があります。その多くが、精神分裂病と呼称された時代に多いです。一番最初に言われたのが「この○○がいが俺の家の敷居をまたぐな」と叔父さんに言われたことを鮮明に覚えています。また今でも私が病気と障碍を抱えていると知っている人は、私への対応が冷ややかなことがあります。私はこんなことは日常茶飯事なので気にしないし、そうゆう人とは交流を持ちません。私が統合失調症になった昭和の時代は、まだ呼称が精神分裂病だからイメージがめちゃくちゃ悪かったです。確か20028月に呼称が精神分裂病から統合失調症に変わってから私への対応も楽になりました。それで今20から40代の当事者には医者の病名の告知率も高くなりました。

一番苦しんでいるのは当事者自身ではないだろうかと思います。また、家族が精神病の理解がないのでどうやって対応したらいいのか苦しんでいますし、悩んでいます。一般に精神病は服薬・通院を続けて病勢を抑える対処療法が殆どです。それなので治癒という言葉を使いません。寛解(かんかい)という言葉を使います。服薬を続けることで病勢を抑えて、火山で言うと休火山状態にしていく治療が一般的です。ただ精神病を普通の病気のように考えて、断薬をして入退院を繰り返すこともあります。回転ドア症候群とでもいうのでしょうか、入退院を繰り返します。それでも23度入退院すると服薬が大切と病識を持つ人も多くいます。

白夢はなぜ自分が精神病になったのか自分探しの旅を続けました。また、自暴自棄になったこともあります。病識を持つまで三度入退院しました。病識を持つまでなんと20年の時が経ちました。3度目の退院で下関の援護寮ヒエダに入所して、生活技術の習得、病気と障碍、制度の勉強をしてからは、服薬を守っていました。援護寮を退寮して断薬して再発し、入院しました。3ヶ月で退院して、仕事に復帰しました。それからは、服薬通院を守って15年、社会生活・仕事をしています。そのころ婚約していましたが、婚約者が待ってくれていましたので、治療に専念していました。

当事者が辛いのは障碍者であり病者であることです。服薬・通院を守ることで病気の状態安定化と再発を防止します。4度目の入退院で性根が入ったのか、服薬・通院には気を付けています。病識は断薬をすると少しずつなくなっていきます。白夢は、3か月の4度目の入院で幸い病識が持てるようになり、仕事を再開しました。4度目の入院はいろんな意味で性根が入りました。退院後1年で結婚しました。それ以後、15年入院はしていません。白夢には、服薬と通院が必要だと自分に課して、服薬する実験を自分にしています。幸い服薬を守る実験は白夢には上手くいっています。断薬した後、服薬を続けていると、病識も自分自身に覚知してきましたので幸いでした。しかし自分の統合失調症には、服薬・通院が必要なことがいまさらながらに確認できるようになりました。4度目の退院以降、調子を崩すことがありますが、そういう時は早めの通院、早退、休暇を取っています。自分の判断に間違いがなかったと今ではそう考えています。

白夢は自分の知らないここ下関で、自分の人生をやり直す気持ちで一からやりなおしました。それがもう22年経ちましたし、同じ21年ニュースレターを編集しています。白夢にはニュースレターの発行が、自分の病状維持によかったように思います。病院を退院し、社会生活をし、仕事をし、結婚をしました。順境な時も逆境な時も連れ合いと生活しています。私は何と幸せ者だと思います。連れ合いにはなんと感謝のしたらいいのか分かりません。連れ合いは白夢の一番の理解者です。有難いことですね・・・・・

私は宗教に何の信心もしていませんが、私は社会の中で神様か、それというかなんと呼べばいいのか、自分は生かされているのだと実感します。白夢はCIL(自立生活センター)の運動とNPOの事務の仕事をしています。幸い、白夢は上司や同僚に恵まれています。職場では初期のCILNPOのメンバーの古株です。運動と事務の仕事を一人職で21年続けています。白夢には、縁の下の力持ち的な下支えの仕事がフィットしたのでしょう。勤務歴も毎年記録更新しています。病気と障碍を抱えて40年になります。これらの年月は長かったようであり、あっという間でもありました。その中でも援護寮ヒエダ新聞、メンタルにゅーすヒエダや冊子の編集が私のライフワークになったのでしょう。また下関で巡り合った人たちが良かったので幸いです。(妻存命時書いた文章)

【編集後記】

 昔から、「朱に交われば赤くなる」と良い人と交われば良い人に、悪い人と交われば悪い人になるようです。白夢は、幸い良い人に交われたのでよい人?‥‥良い人になれたと思いますがいかがでしょうか。私は企業で研究職をしていました。既存の技術が何もない状態から新技術を構築する仕事でしたので研究論文とか書いていました。それでニュースレターや冊子が編集できたのかなーと思いますが、全くニュースレターの編集能力はなく添削をしてもらっていたMHSW(精神保健福祉士)の土井氏には文章の殆どに赤ペンで添削が入っていました。それでも白夢はあきらめず何度も編集しなおして、添削されての繰り返しでしたが、決して諦めず編集を続けました。現在では、メンタルにゅーすでは「て、に、を、は」や句読点の添削だけになりました。もうニュースレターの編集をして22年が経ちます。下関に移住してずっとニュースレターをある程度ストックしたら冊子の編集をしていました。ここ78年はパニック障碍を発病して出張ができなくなりました。また、年に何回かの精神の講演もできなくなりました。私は当事者として、世間の人や当事者に精神病の啓発にと現在でもメンタルにゅーすを続けています。多くの知り合いや仲間、上司や同僚たちの中で生かされていると考えて、自分のできること、自分にしかできないことを21年続けてきました。継続したことは力となり周囲の人を巻き込んでいきました。「継続は力なり」を実感したひと時でした。

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