メンタルにゅーすヒエダ

Vol.365

「新型うつ」

202356日  Vol.365

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 白夢(SAM

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 私が新型うつを発症したのは、20185月のことでした。新型うつとはここ数年の間に騒がれるようになった、いわゆる仕事したくない病です。プライベートでは全くうつ症状がない。仕事に行くとうつ症状が出る。不思議なことに私の経験では、まるで身体の中にスイッチがあるかのように急激に変化します。そんな中無理して職場にいると私の場合暴れたくなったり、仕事うっちゃらかして走って逃げようかと頭がパニックになりました。でも体調が悪いので帰らせて下さいと言ってOKをもらうと、だんだんその瞬間からさっきまでの頭の中のパニックとうつ症状が嘘のようにスーッと消えていくのです。その繰り返しでした。仕事に行く前からうつ症状が出る場合、職場に着いてさぁ仕事始めようとすると急にうつ症状が出る、前日の夜からうつ症状が出る、だいたいこの3パターンでした。でも私の体験では、職場に着いてさぁ始めようかとなった時急にうつ症状が出る場合が多かったです。

主治医に言うと、「なんでうつが出るの?」と聞かれますが、私だってわかりません。わかってたらとっくに解決してます。

通常のうつ病は常に安定してうつ症状が出るものです。定型うつというらしいですね、新型うつは非定型うつと呼ばれています。

仕事の時だけうつ症状が出る。これが新型うつです。

新型うつの発症が出るまでは、私は確かにうつ病と言われ薬を飲んでいましたが、仕事したくないのはみんな当たり前で食べていかなきゃいけないのだから当然嫌でもするものだし、それを嫌というのは=食べていけないということだから、嫌でもやるべきというスタンスでした。難しい表現になりますが、嫌だけど嫌じゃないという当然にするものだと思って生きてました。

そのせいか、新型うつを発症した時は右も左もわからない、何何この感情一体何なのという気持ちになったのを覚えています。

社会復帰するまで3年かかりました。その3年間は就労継続支援B型と行ったり行かなかったり途中で帰ったりの繰り返しの半年間のアルバイト、数日で辞めた派遣社員、単発アルバイトでした。就労継続支援B型から少しずつ立て直すよう今の主治医から言われました。それでもB型の工賃と障害年金の3級では十分な収入ではなくとても苦しかったです。

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> B型ですら作業に行きたくない、低賃金でバカらしい、チリも積もれば山となるんだよと言われても、そんな給料やったらいらんわ、家で遅くまで寝とくわって悪態をついた気持ちでした。そんな思いで休むこともしばしば。負のスパイラルでした。私は就労意欲はありましたが、現実は仕事したくない、B型は低賃金でさらに行きたくない。そういうめちゃくちゃな思いでいました。この3年間は色々と苦労しました。一番キツかったのは家族の理解がなかったことです。毎晩アルコール依存症の父からの嫌味、嫌がらせ、説教、母からの言葉の暴力、嫌なことがあると僕に八つ当たり。完全に矛先にされてました。父は元々祖父が起業して御坊ちゃまで育ち50歳の時に父が社長になって会社を潰した人間です。それから人が変わりました。そして父は3人兄弟の真ん中で、上の姉と下の弟がとても頭が良く優秀。でも父だけ落ちこぼれ。祖父は昔はとても怖い人だったと聞かされてます。父のことを散々上の姉と下の弟と比べてバカにしてたみたいです。祖母もそうだったみたいです。会社が潰れて人が変わったのと、アルコール依存症で、酒を飲むと祖父母に因縁つけて当たり散らかしてました。会社が潰れたのが僕が中学2年の時、僕が高校を卒業して就職するまでニートでした。

そしてニートでなくなり、一般企業で働き始めて、僕が新卒で入ったK製鋼所を2年半で退職すると、近いタイミングで母方の従兄弟の結婚式がありました。親戚が顔を合わせる場で、僕は当時派遣社員、僕と同じくらいの年齢の親戚たちは、三菱重工、宇部興産など大手企業ばかり。結婚式から帰った瞬間、そこに座れと父に言われ、今日はお前のせいで大恥かいたみんなきちんとしたところで正社員で働いてるなのにお前は派遣社員か恥ずかしいと思わんのかそう言われて僕は自覚はありませんでしたが、表情に変化があったみたいで、父が、なんかその顔は文句あるんか文句あるなら今すぐ出ていけ‼️20歳越えとるんやから扶養する義務はもうない‼️お前は俺の子供じゃない‼️と言われて自分の部屋へ帰って行きました

その後父へ報いが来ます。就職して1年経った頃リストラにあったのです。それから雇用保険をもらいながら八幡のポリテクセンター へ2年間通い、ビル管理の仕事に就いて今に至ります。

リストラされた原因は父は営業がしたくなかったらしいのです。あくまで営業事務で入社したにも関わらず営業に行けと言われ、それを拒否して、会社で掃除や草抜きをして時間を潰してたみたいです。リストラされた時、お前のK製鋼所時代の上司からのイジメと同じだ、俺はやめる。と手のひら返しをしたのです。

その後、僕は派遣社員を1年半程して市役所に入ります。そうなったらまた手のひら返しです。僕に擦り付くようになりました。一緒に飯でも行かんか?と言ってくるようになりました。一応行きましたけどいい気はしなかったです。祖母が亡くなった時、祖父が亡くなった時親戚が集まると、俺の息子は市役所に勤めてると聞いてもないのに言いふらしていたそうです。親戚から市役所に勤めてるんだねと声をかけられて、何で知ってるんですかと聞くとあなたのお父さんが自慢げに言ってたよと聞きました。

しかし、59ヶ月勤めて市役所側からやめろと言わんばかりの仕事与えない攻撃を受けます。必死になって仕事を下さい、何でもしますと言ってもそんな病気を持ってる人間に仕事はさせられないの一点張りでした。そして身を引く形で退職。そうなるとまた手のひら返しです。かつてのような説教が始まりました。一体何が嫌なんか、どこが病気なんかと罵倒されました。堪忍袋の尾が切れた僕は父を殴り怪我をさせました。その後しばらくは何も言われませんでしたが、忘れたのかまた説教が始まり僕は職を転々としながら耐えてました

そして就労継続支援B型は行くと決断した僕を父は障害者として今後生きて行くのかと言い出しました僕は無視しました。

それからというと、酒を飲むたびに説教が毎晩始まりました。自殺未遂をしたのもこの3年間の間のことです。親は自分が育てられたように自分の子供を育てると言いますが、父も前述のように親に比べられて育ったので私の弟が知的障害で障害者枠で大手タイヤメーカーでずっと20歳の頃から働いてましたのでよく比べられてました。

嫌味、言葉の暴力、重箱の隅をつつくように、例えば食事の時、箸を落としたりしただけで散々嫌味や言葉の暴力が飛んで来てました。こんな自分の状態で、こんなところにいるぐらいなら死んだほうがマシと思い自殺未遂を合計3年間で5回しましたが未遂で終わりました。

なんで止めるんだ‼️と言ったら母はこの家は借家なんだから事故物件になるから後の残された私たちが責任取らないといけなくなるからと言われました僕の命より体裁かまあそうだよな死を望んでいた私が言うのも変な話ですが、その言葉に悲しくなりました。

生活保護も考えましたが、窓口に行くとまずは家を借りてきて下さい、初期費用は税金なので出せませんと言われ、法テラスを利用して弁護士に相談、事実は114,000円までなら出るとのことそれを窓口で追求したら、条件があるんですよと言われて、現在の家の状況を説明しましたがその理由では難しいと思いますと言われ、何のための行政だと思いましたが、まあ死ねば全て解決するさ‼️と思い自殺未遂を繰り返しました

しかしそんな中転機が訪れます。

通っていた就労継続支援B型の施設長のお母様と僕が知り合いでその紹介で入ったのですが、20223月のことです。家の2階から飛び降りました事務所に来るように呼び出され、第一声が、まあ今回飛び降りたのは周りの気を引きたかっただけだねと言われ、違いますというと、だって普通に考えたら2階から飛び降りて死ねるわけないやん、前に自分も2階から飛び降りて死ねるわけありませんよねアハハなんて言ってたやんと言われましたこの施設長は都合の良いように嘘をつくことは知っていたのと、自分は2階から飛び降りて死ねるわけないという会話をした記憶がないのと、記憶がもし仮に飛んだとしても、その話を僕が第三者からの視点で見て、そんなこと思わないから、また嘘ついたと見抜けました。嘘は上手に方便の時だけ使いましょうねと言いたいです(笑)。

そんな酷いことを言われたとお母様に伝えました、そしたら「あの子はあなたのためを思って言ったんだと思うよ!あの子は命の大切さを誰よりもわかってるから」んなわけあるか‼️と思い、今までされたことを全て暴露したら、「だったら娘と相性が合わないのかもね」と一言だけ返って来ました。子供だから庇(かば)ってるんだなと思いましたが一応、話を合わせて、自分の話を聞いてもらったお礼を言ってやり取りを終えました。そして社協の私の支援員に事業所変わりたいということと、自殺未遂のこと伝えたら、まずは療養しましょう!僕から先方には伝えておきますから!と言われましたそれが金曜日でした。そして、事業所側から何も音沙汰がないので無事にしばらくお休みすることになったのかなと社協の人に月曜日に確認の電話をしたら、金曜日には施設長はそんなこと一言も言ってなかったのに、社協の人が電話したら、自殺しようとした人をうちに置いておくことは出来ませんと言われたらしく、クビですということでした。おそらくお母様が娘である施設長に何か言ったんでしょう…

なら、通ってる病院のデイケアの臨床心理士に相談しようと思って相談に乗ってもらい、軽作業の短時間バイトから始めることにしました。そしたらそれが上手く行き現在に至ります。見事見返したと思ったと同時に、やっぱり悪いことは出来ないんだよと思いました(笑)。

 

ここまでお読み下さりありがとうございます。

これは仮説ですが私が新型うつを発症した原因はこうなのではないかと思い書かせて頂きます。

 

これは長い期間私の新型うつの経験から振り返った原因ではないかという仮説ですが、まず経緯と致しましては、前年の12月まで市役所で働いていました。

> 市役所ではとてもやり甲斐を感じていたのを記憶しています。

> 祖父から勧められて公務員試験3ヶ月前に勉強を独学で仕事の傍やり、筆記試験をパスし、二次試験の適性検査、作文、集団討論、面接もパスし無事合格を頂き、祖父も喜んでくれてました。合格通知が届いた時「おめでとう、おじいちゃんも毎日仏壇でご先祖様にお願いしてたんだよ」と聞かされました。

> 通常、まず筆記試験を3ヶ月でパスするなんて考えられないことです。勉強は確かに仕事の傍、15時間はしてましたが、それでも通常なら考えられません。見えない力、ご縁とでも言いましょうか、それを感じました。

> しかしながら、障害者枠ではなく一般枠で障害をクローズで入ったため、様々な私の当時の病名である、うつ病、統合失調症、ADHDのグレーゾーンの症状により「現在の病名は、適応障害、ADHD、軽度学習障害」、仕事にならず、人間関係にも恵まれず最終的には追い出しの形で、私にわざと仕事を与えないようにされ、身を引く形で退職致しました。

> 障害者枠は当時は身体障害者しかなく、当時の主治医に相談したら、嘘をつくことと、聞かれなくて言わないことは違うという言葉から、一般枠で入ることとなりました。

> 市役所時代は色々理不尽な目に遭いましたが、やり甲斐だけはありました。周りに久しぶりに会った友人に、仕事何してるか聞かれた時、市役所と答えると凄いねとビックリされてました。その頃の名残(なごり)と、在職中仕事を与えられなくてただ椅子に座ってるだけの時間があり、持病の多動性が出て、精神的におかしくなり休職を頻繁にしました。公務員だったので、給料の80%が保証され、障害年金の3級もあったため不自由なく暮らせたのもあり、働いた対価ではなく、タダでお金がもらえることに味を占めてしまったのと、公務員という鼻が高い肩書を捨てて、派遣社員に成り下がり、なんで自分はこんなところに居るんだろう…本来なら今頃あんな扱いを受けなければ公務員でいれたはずなのに…という思いから仕事がしたくない、でもお金は欲しい、タダでお金が欲しいという支離滅裂で、今振り返ってもめちゃくちゃな言い訳で仕事を転々としました。

> 今振り返ると、市役所時代に病気の件でなんとか市役所に残ろうとして、怪しい電話占いに電話をして借金を作り、市役所を結局やめることになり、収入がなくなり、結局自己破産をするハメになりました。その報いが返ってきたのではと今は思います。

> 市役所をやめてから、仕事に行けない、収入もない、仕事したいのに現実はできない、こんな自分みたいな人間はなんて愚かなんだろう、社会のゴミだ。

> そう思い自殺未遂を5回起こしました。リストカットをして風呂に手をつける、飛び降り、トータルで5回です。実家でしたので母に見つかり止められる、飛び降りはしましたが家の2階から頭から落ちれば死ねると思いました。私の家は高さが2階からでも結構ありましたので。しかし、上手く頭から行けず、腹這いで庭に放置してあったゴミがクッションになり、怪我で終わりました。

> それが原因で就労継続支援B型からクビを言い渡されました。そして現在はアルバイトで市内の不動産会社で労務の仕事をしております。

> 現在でも新型うつの症状は度々あります。

> 新型うつはとても怖い病気です。保険業界では働けなくなったら収入を補填する保険がありますが、業界用語で社会的な死と言うらしいです。この国は日本国なのでセーフティーネットとして生活保護がありますが、様々な制約が多く病院の私の担当の臨床心理士はオススメしないと言います。タダでお金がもらえるからです。それに慣れてしまうと働くことが困難になる。まさしく私の公務員時代そのものです。

> 生活保護を否定するつもりはありません。人それぞれ事情がありますので使うべき人も居ると思います。ただ私は使いたくないというだけです。すでに似たような経験を公務員時代に経験して、その後苦しんだからです。

> 主治医にここ数年訴えても新型うつのことは認めてくれません。障害年金の診断書にもあくまで本人は新型うつと主張しているとしか書いてもらえません。日本の精神医学は遅れてると言われています。もっと諸外国のように日本の精神医学の発展を祈るばかりです。                              文責:K.T

【編集後記】

 私は定型うつです。朝が調子が悪く。時間がたつに従い夕方になるとうつは消えます。41年前私が人前では勉強せず、深夜まで勉強をしていて会社の学校でうつになったとき、その頃は現在のようにうつには休息が必要と理解されず、機械工学科の教授にカウンセリングを受けるように言われカウンセリングを受けていました。人前で勉強せず深夜勉強していました。授業中は寝ていました。私は上の中くらいの成績でした。私が勉強せず成績がいいのに怒った同期ですが年上の人にあいつは成績がいいのに授業中ねてる、村八分にしようと触れ回って私はみんなに無視されました。カウンセリングに行った授業のノートを同期の誰も見せてくれなかったのです。まったくの無視です。私はノートを取らないときは授業中に理解していましたので授業についていってました。私も統合失調症になって自殺を考えていました。毎日死にたかったです。それを止めてくれたのは母です。母は生きていれば良いことがあるから自殺だけはしないでと言われて41年経ちます。幸い、下関に来て、就職して21CIL下関NPO法人らいとで働き、結婚もしました。妻とは死別しました。警察は、私を疑い取り調べを6時間されました。死のうと思って上司にこれまで長い間お世話になりましたと言ってskypeを切りました。そしたら10分くらいで我が家に同僚が10人くらい集まり説得されまして、自殺をやめました。生きていれば良いことがある。母の口癖でした。妻と死別して3年が経とうとしています。生きていれば良いことがある。確かにそうです。少なくとも我が家に来て自殺を止めてくれた10人は私のことを理解してくれている。そう思って毎日を生きています。

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