メンタルにゅーすヒエダ

Vol.368

「統合失調症になって 41 年」

2023 7 15 日   Vol.368

CIL (自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集 白夢( SAM

TEL(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail   s-cil@feel.ocn.ne.jp

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 白夢は思えば、統合失調症に罹患して 41 年、健常な時が 23 歳までですので、その 2 倍弱病気と障碍を抱えて生きています。睡眠時間を削って、 3~4 時間で勉強や仕事をしたのが原因でした。 2 年間うつ状態で大変苦しく辛い日々を送りました。 23 歳で、故郷山口県で再就職をして、 1 日の睡眠時間が 2~3 時間で設計の仕事をしていて統合失調症を発病しました。思い出せば、幼児のころから統合失調症気質があったように思います。もう一人の自分が自分の言動を頭の上から俯瞰してみていました。そして自分が悪い道に入らないように自分に注意をしてくれていたように思います。

父から幼児期から虐待を受けていましたし、不遇な生活をしていました。それでも不良にならず真面目に学校に行き、真面目に勉強をしていました。 SAM 自身、不良にならないで学業・生活を送っていましたのに不思議に思っていましたが、俯瞰した自分が私に悪いことをしないように注意してくれました。小学・中学・高校生の時は俯瞰した自分の幻聴のようなものがいい面に働いていました。ですから、まじめに誠実に生活していました。

高校を卒業してから就職して 3 度抑うつ状態を経験しました。 1 回目のうつはやりすごしました。 2 回目のうつは会社の学校で、 3 回目は学校を卒業して元の職場に復職してからでした。回数が増えるに従い、抑うつ状態がひどくなり、最後は退職しました。

統合失調症を発病したのは故郷山口県で設計の仕事をしていて、睡眠時間 2~3 時間で仕事をしていたら、監視妄想と幻聴(白夢への悪口)に苛(さいな)まれてのことです。会社の中を徘徊して、独語・幻聴・妄想は酷くなって、見かねて上司が山口大学の医学部の附属病院に白夢を連れていき、診察され統合失調症と告知され、即入院になりました。強い抗精神病薬を服薬して、保護室にいました。 3 ヶ月で白夢は退院しました。

このころは、統合失調症が精神分裂病と言われていました。差別・偏見・汚名が酷かったころです。一生病院生活、仕事できない、結婚できないと悲観していました。また、精神当事者が病気のことを知ると調子が悪くなると考えられていた頃で、詳しく病気と障碍のことを話してもらえないでいました。当時のことを思い出すと統合失調症の本を買って勉強しようとしなかったです。ただ回復してきた入院 2 か月目の頃、主治医に統合失調症は、服薬を長期間続けることが必要だと言われただけです。なぜ服薬を続けないといけないのかとか病気のことを詳しく教えてくれませんでした。

幸い 3 ヶ月で寛解し退院しました。私は、精神病を普通の病気のように治癒したと思っていましたので、服薬は 1 ヶ月でやめました。半年後抑うつ状態になり 2 回目の入院を 3 ヶ月しました。それからは、服薬を守って 15 年、再発入院はしなかったです。この 15 年間で様々な仕事をしました。たいていは 2 3 日から 1 週間で、一番長く仕事をしたのは、非常勤の家庭教師の仕事が 6 年一番長く続きました。中学と高校の数学と英語を教えていました。私は勉強ができない中学生でしたが、自分の努力で成績が 300 人中 130 番から 11 番まで這い上がった経験があったので、勉強の分からないところをどのように分からないか説明できない教え子に確認を取りながら、教えていました。分からないことをどのように分からないか説明できるまで教えてくると成績は上がります。私は劣等生だったのでその経験があったので、教え子は指導の難しい劣等生です。彼らがどんよりした目から輝きを取り戻し、成績が上がるまで目標の高校、大学に合格するまで指導をしていました。劣等生が勉強の面白さを取り戻すまで通常 2 3 年教えていました。私のユニークな指導は、現実にこの数学の考え方は、大学ではこのようにやるとか、小学生でやった鶴亀算は連立二元一次方程式で解けるとか、理科のパスカルの法則は自動車のブレーキにつかわれていますとか。英単語でしりとりをするとか。現実の教え子の力で解けるように教えていました。私の指導法は、大変人気があったことを思い出します。

うつがひどくなり家庭教師をやめてしばらくして、主治医が土方をやりなさい、体を使う肉体労働は疲れてよく眠れるからということからでした。私は 18 歳の時に腰椎のヘルニアの手術をしましたが、案の定腰痛で仕事を辞めました。会社に腰の保証をお願いしましたが無下に首になりました。

そうこうしていると、酒を飲み始め、断薬し措置入院になりました。 4 年措置入院でしたが 1 年で措置症状 ( 自傷他害 ) は取れました。しかし、病院長と闘い任意入院になり、退院し、下関の援護寮ヒエダに入所しました。それからは、援護寮ヒエダで自立の訓練 ( 薬の管理、金銭管理、調理技術の習得、掃除、洗濯、整理整頓等 ) をしながら精神障碍者福祉工場で 2 年弱働き、一般就労し (CIL 下関・ NPO 法人らいと ) 、援護寮ヒエダから通勤 1 年後に退寮して自立生活を始めました。それから 6 年後に社内結婚をし、同じ職場で現在に至ります。思えばはや、 21 年前のことです。

【編集後記】

私が病気や障碍の勉強・対処法で覚知して、精神保健福祉法の制度の勉強を始めたのが、現在の仕事(障碍者の自立生活支援)で役に立っています。援護寮では障碍と病気の受容、 CIL 下関・ NPO 法人らいとでは自己決定・自己実現・自己責任を学びそれらを糧に同じ職場で定年後嘱託として働いています。今は、平静、平安、平穏な仕事・生活をしております。私はこれまでに多くに医療スタッフ、福祉従事者、上司・同僚、家族・親族、友人のお世話になってきました。お世話になった人たちを裏切らないように真面目に誠実に人と接し仕事・生活をしてきました。下関に来て 21 年が経ちました。仕事は現在、 CIL 下関・ NPO 法人らいとで嘱託になりましたが、 20 年働いています。よくここまで仕事が続いたものだと考えています。私は、社会から育てられました。それなので社会にお返しができるようにメンタルにゅーすを続け、それらを参考に冊子を、助成を受けて制作してきました。本当に白夢は社会に感謝しています。それだから、精神障害者と関係者を啓発してきましたが自分の精神障害で勉強したこと、考えたことをメンタルにゅーすで続けています。多くの仲間や、関係者の啓発のために・・・・・

 

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