メンタルにゅーすヒエダ

Vol.379

「幸せ」

2024 9 3 日   Vol.379

CIL (自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関(精神自助会) 編集  SAM (白夢)

TEL(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail   s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL     https://cilsimonosekiraito.wixsite.com/website

  SAM の家は貧乏でした。父親が難病のリューマチだったので生活保護を受けていました。生活保護の給付金は父が取りに行っていたので、お金はその日のうちに父が酒を飲んで使っていました。母は残っているお金でせいかつをやりくりしていました。白夢、弟、妹が少し大きくなって母は働きに出ていましたが。妹が保育園の年少組のときには、ははは、働いていました。生活保護では働けるものは働かなければならない規則がありますので仕方がないのかもしれませんが、妹がせめて小学一年生ぐらいまで、子供の面倒を見させてくれてもいいではないかと、その頃の白夢は思っていました。

 自分の家庭がほかの家庭と違うのはすぐわかりました。友だちのうちで食事を一緒にしたら、ああこれが普通の食事だったのだなと思いました。おかずが3から5品並び汁物もついていました。白夢の家庭のごっそうは、熱いご飯に梅を入れて海苔を巻いていたらおおごっそうでした。そのころ白夢が考えたのは、自分は大人になって結婚したら、こんな家庭は作らないぞと思っていました。

 そのころ考えていたのは、いい大学に入って、会社に就職し、結婚をし、幸せな家庭を築くぞと思っていました。大学には行きませんでしたが、中学の時、恩師が工業高校に行って、 H 製作所に入ったら、試験があるが高卒者のために会社の学校に大学並みの勉強をして、なお給料をもらいながらできると教えられて、恩師の言うとおりにその会社に就職しました。

私はそんなに一生懸命勉強をせずに卒業しました。その時会社の学校ができて21年目でした。しかし学校に失望しました。年3回期末試験がありましたが、先輩が試験問題と解答を残していましたので試験はワンパターンでした。試験は記憶力だけで解ける問題でそれでも各科目最高で70点くらいでした。私は勉強に失望しました。人数の多い学科はテスト専従の対策員を決めて過去問をなどの対策書を作っていました。

 それと2学期になって、私自身に問題が起きました。うつになりました。現在ならうつは認知されていましたが今から40年前は理解の外精神力が弱い、怠け者がなるのだと思われていました。学校の教授は、ノイローゼでもなったのだろうと会社の医務室にカウンセリングに行くように指示がありました。白夢がうつになったのが怠けているといって同じ科の学生が白夢にいじめをふるっていました。同級生にいいようにこき使われていました。人は集団になると悪人になるのだなと俯瞰して自分を見下ろしている自分がいました。

 話が最初から脱線しました本題に戻ります。「幸せ」は仏教用語で「中庸」という言葉ぐらいが丁度いいのではないのでしょうか?。中くらい、ほどほどに生きていけばいいのだと言っているのだろうと思います。白夢は白か黒か0か1かのデジタル人間です。淡いグレーゾーンのない人間です。勉強でも仕事でもほどほどにすることができません。それで時間を削って深夜まで勉強や仕事をしていました。睡眠時間2,3時間で2,3か月やっていると会社の学校で鬱が出ました。そうすると約束事が守れずになり同じ科の同級生から甘えてる、怠けていると散々責められました。ついに村八分になりました。一番困ったのはカウンセリングに行っているときの授業のノートをみんなが見せてくれないので大変困りました。このような対応でしたから私には打つ手がありません。みんなが嫌なことは、私に多数決の論理で迫ってきます。私はなすすべもなく鬱がひどくなり最後には勉強が頭に入ってきませんでした。

 現在でしたら鬱の認知がありますので打つには休養が必要だとわかりますので休暇を取れます。40年前には鬱の認知がありませんでしたので白夢は辛かったです。人は集団になると悪になる。これは私の初めての哲学でした。

 人の幸せって何だろうって考えることがここ最近とみに考えます。小学高の時は、いい高校、大学に入って就職することだと考えていましたが、障碍者になって白夢はほどほどに生きることと考えます。やることがあって、食べて生きていくことができ老後の蓄財ができればなと思います。今は亡くなった妻とよく話していたのは、80歳くらいまで二人仲良く生きようねとよく言っていました。決していい高校、大学。会社に就職するのではないと考えています。そして焦らず。がんばらず・無理しない、アガムの法則を守ることだと思います。それでも結婚したいという目標は成し遂げました。これからは社会に貢献する今の仕事を続けていければと思います。

 自分は決して頭はよくないです。しかし努力する才能があります。継続する才能があります。妻とは死別しましたが、彼女が寛解時よく言っていたこと「白夢、メンタルにゅーすは続けるのよ」は守ろうと思います。

【編集後記】

 私は子供のころから、貧乏したのでこんな生活はしたくないと思いました。普通の生活がしたかったです。そのためにはいい大学、会社に入ってお金を稼いで、早く結婚して幸せな生活がしたかったです。結局精神病になって H 製作所家電研究所を退職しました。 H 製作所では中堅技術者を育てるのに試験が 5 回ありそれらに合格して、勉強して失望しました。 H 製作所に失望しました。会社は、うつで自己都合退職をしました。

 そして悟ったのは高学歴でもなく、高収入でもなく、高身長でもない。普通の生活をしてみたいと思いました。幸せは。普通に生活して、食べて行け、やるべく仕事があることだと悟りました。多くの皆さんに伝えたい、いい会社、偉くなることがいいことではないです。普通に中庸に生活することです。私は妻と死別しました。私は彼女の残した言葉、いつも白夢に行っていたこと注意を思い出します。彼女は白夢の女神であり、恋人であり、、妻であり、白夢のよき理解者でした。

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