メンタルにゅーすVol.64

メンタルにゅーすヒエダ

 

当事者として

CILでの役割

2010年  Vol.64

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関 編集 SAM

Tel(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL  http://members.jcom.home.ne.jp/s-cil/

 ある日、CIL下関の事務所で他団体の当事者の職員研修として、CIL下関の同僚の当事者職員が講師としてお話をしている内容を無意識に聴いていました。私はCIL下関で働くようになって、自分は健全者職員と較べてたいして仕事をしていない、もっとバリバリ働かないといけないと思って悩んでいた時期がありました。同僚の当事者は、「私たち当事者は自分の仕事を健全者と較べないこと。」とこう言っていました。

私も、健全者職員と当事者職員の仕事量や成果などを比較して考えると、当事者の私は仕事をしていないのではないか、と悩んでいました。当事者職員として我々は、仕事のことで同じ悩み・ジレンマに自分を追い込んでいた経験があるのだなと思いました。彼は、そういった悩みやジレンマを私より先に潜り抜けたのだなと思いました。彼は、頭のいい人だから私よりもっと真剣に考え、早く答えを出したのだなと思いました。私は、その瞬間にいつも上司のKが私たち当事者職員は、「いい介助者を育てることが仕事だよ。」と話していたことを思い出しました。そうしたら、私は同僚や仲間に「精神障碍について理解を図ること」も私の仕事、「CIL下関の機関誌ネイチャー・メンタルにゅーすヒエダ」を編集することも、私たち当事者が地域で自立生活をすることも仕事だと思いました。今まで自分を責め続けたことが、いきなり私の心の中をクリアに開けてきました。当事者には病気と障碍を持つことによる仕事があります。それらはピア・カウンセリング・自立生活プログラムや相談業務など悩みや制度・生活技術のノウハウなど情報提供も当事者が社会生活をするうえで大切なことです。こういったことも、当事者として共感することが出来るので、私たちCILの当事者職員の仕事ですね。健全者の職員と同じ土俵で仕事を競争する(実際は競争できないですが)より、当事者にしか出来ない土俵の仕事をすればいいのだと、私の頭の中でいろんなことが思い出されて整理されてきました。当事者は自分の仕事に自信を持って社会で長く自立生活を続け、仲間の後輩に様々な生活技術のノウハウを伝えてください。大切な仕事を担っているのですよ。こんなに簡単なことを、私には答えが出せずにいたのかと思いました。しかし、同僚のお陰で、私は当事者職員としてCILでの役割をちゃんと果たしているのだと、「自分で自分を褒めてあげたい。」と思いました。

 そういえば、私にはカナリアと言う鳥の仕事もしています。昔、石炭を坑道で掘っているときに坑夫がカナリアを鳥かごに入れて坑道に連れて入っていました。それは、空気が悪くなるとカナリアが一番先に死んでしまいます。それに気付くと坑夫たちが坑道から避難するのです。私はCIL下関で、精神的に一番脆弱な当事者職員です。私が、働きやすい職場はいい職場です。反対に、私が働きにくい職場は、悪い職場です。上司は、事務所にいて私の挙動を見れば、職場の状況が分かるみたいです。今年に入って、上司のKからそのような話を聴いて、私はびっくりしました。Kは、私の何を見て職場の状況を見ているのか私はポカンとした表情でその話を聴いていました。

 仕事と言えば、「メンタルにゅーすヒエダ」は、ホームページで広く世の中へ発信しています。ところでCIL下関の同僚が「メンタルにゅーすヒエダ」が7年も続いているのを不思議に思っているみたいです。「どうしてそんなにネタが切れないで続くの?」と彼女が問いかけます。「ええ、ネタって切れるの?」私が問いかけを返します。「普通、ネタ切れるでしょう。」と彼女が話していました。どうやら彼女は、67ヶ月もネタ切れにならず「メンタルにゅーすヒエダ」が続いているのが不思議なのです。

私は、下関に来て援護寮ヒエダに入寮したときいくつかの決心をしました。その中の一つで「始めたことは続ける。」とどんなつまらないこともそれはいつか何処かで誰かが見ていてくれるはずだと考えていました。私自身は特に誰からも評価されなくともやり始めたことは続けようと思っていました。「継続は力なり」日立製作所の京浜工業高等専門学院で私が勉強していたときに学院長の特別講義で聞いた言葉でした。「続ければ、それが力になり自信につながります。」と学院長のお話を思い出します。実はこの特別講義のとき私は、眠たくてたまらなかったのを覚えています。成績に関係ないので、今日の講義は寝ておこうと以前から決めていましたことを思い出します。今思い出していますが、学院長に申し訳ないことをしたと反省しております。

中国の論語の中で「不惑:『四十にして心惑わず』」と言う言葉あります。人間、40歳ごろになると物珍しい事はなくなり、喜怒哀楽も乏しくなってきます。私は、毎日朝早く起きて、本を1、2時間読むことを習慣にしています。勉強とはいえないですけど、個人的な興味で精神関係の本を読んでいます。自分が知らない世界を本は疑似体験させてくれます。だから私は、本を読みます。最近は斎藤茂吉の息子の斎藤茂太の本が、私のマイブームです。皆さんも斎藤茂太は知らなくても、斎藤茂吉は皆さんも、その作品を読んだことがあるはずですよ。二人とも親子で精神科医です。思い出してみてください。

 

【編集後記】

 私には幻聴と妄想があることで、私の日常の言動をたしなめてくれます。悪口の幻聴・被害妄想を良い風に良い風に捉えて考え直すとこのような解釈になります。私は、今思えば幻聴と妄想が、小さな頃からその症状があったように思います。よーく思い出してみるとたしなめられて助かったこともありました。私の心の中で幻聴と妄想は日常生活の中の心の声と心の妄想でした。私の心の中でのこれらのことは日常茶飯事に私の増長をたしなめてくれました。だから、今思えば、ある意味で正直で素直な心で私自身を見守っていたのかなと思います。これの説明に良い説明・例えはないかと考えるに、クリスチャンの信仰の中での説明があります。「神様がいつも私たちを見守って下さる。だから、正直で勤勉に生活しないといけない。」と日本のクリスチャンは話しています。これを例えに私はこう説明します。「私自身が私の後ろで俯瞰して、私を見下ろしています。この俯瞰した自分が私を間違いのないように見ていてくれるような気がします。」このような例えで皆さんは理解してくれるでしょうか。人は人を性善説、性悪説と二元論で捉える考え方があります。私は、自分自身を正直で素直な人間と思います。だから私は性善説を唱えます。あなたは、どのように考えますか。

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