メンタルにゅーすVol.70

 

メンタルにゅーすヒエダ

 

残存症状と私

 

2010年  Vol.70

CIL(自立生活センター)下関発行

ピア・ハート下関 編集 SAM

Tel(083)-263-2687

FAX(083)-263-2688

E-mail  s-cil@feel.ocn.ne.jp

URL  http://members.jcom.home.ne.jp/s-cil/

 私の病気は、統合失調症(精神分裂病)です。私の状態は、不完全寛解状態です。

発病して状態が落ち着いて退院となったとき、時は1982年(28年前)、廃人のようでした。それは、今でもちゃんと覚えています。とにかく何もする気が無くボーっとしていました。私は、何もする意欲も無く、TVをつけていて、実際は見ているわけでなく布団の上でゴロゴロしているだけでした。家族は私をどのように見ていたのでしょうか?多分、怠けていると思っていたのでしょう。私は、一体何が自分の身の上に降り注ぎ、今後どのようにして私は生きていけばいいのか途方にくれていました。

 統合失調症、以前の病名は精神分裂病といいます。この病名を漢字の精神・分裂・病、それぞれの意味を推測すると日本人であれば大変な正体不明の病気に罹患したものだと考えてうちひしがれてしまうかもしれません。一体私の身の上に何が起きたのか私にはさっぱり分かりませんでした。ただ、私は、突然今までの家族・親戚から「キチガイ」というレッテルを貼られて、今までの自分の信用と言うものが一瞬のうちに瓦礫のように崩れてしまったように感じました。

 今思えば、私が統合失調症から立ち上がるのに、20年近く時間が必要だったのかもしれません。今まで、自分の病気の勉強をしてこなかったのには理由があります。私は20年間病識も無くこの世を彷徨っていました。たまたま、3度目の入退院で、看護師さんが統合失調症のことを教えてくれ、その後すぐに援護寮に入寮して、何故だか自分の抱える統合失調症に興味をもち勉強を始めたのが、事の始まりです。28年前、私に病名を伝えたのは山口大学付属病院の教授でした。「あなたの病気は精神分裂病です。服薬を長期間続ける必要があります。」と主治医が診断しました。今の私なら、自分の病気に対処して生きていくことが出来ますが、その当時は正体不明で怖い病気に罹患したなと、どうしていいか分かりませんでした。3ヶ月くらいで、退院してから、服薬・通院をしなかったので調子を崩して抑うつ状態になり辛い毎日を送っていました。私は、ただ漠然と病気と障碍にたたき伏せられていました。今思えば、私はその当時、冷静な思考ができなかったのだと思います。冷静でいれば少なくとも私は、病気と障碍・制度など、様々なことについて勉強をしたはずです。私は、病気と障碍に対処して生きていくためにアガムの法則を考えました。あせらない・がんばらない・むりしない、自分で考え出したことなのにいつも、あせって・がんばって・むりしています。職場では私が仕事にテンパッていたら上司や同僚がテンションバックしてくれますので、何とか仕事を続けています。何か悩みがあれば、同僚のピアカウンセラーとセッションをします。私の事例から考えても、統合失調症者でも適当な環境と周囲の配慮など声の掛け合いで仕事や人間関係をサポートすれば上手く社会生活に適合していくみたいです。

 話は変わりますが、統合失調症を罹患したアメリカ人でノーベル賞を受賞した人がいます。1950年に20ページくらいの数学の論文(「非協力ゲーム理論」)が発表され、それが1994年代にノーベル経済賞を受賞しました。その当時、この方ジョン・ナッシュ教授は、病状が寛解してきました。ただ、統合失調症に罹患しているし、大勢いの前で受賞後講演とかあるので大丈夫だろうかと周囲の人達が気を揉んでいました。結局周りの人達の考えすぎでした。ノーベル賞の受賞・講演その他もろもろのことを無事全うしました。

ナッシュ教授のお話が、ビデオになっています。「ビューティフル・マインド」というタイトルで映画化されました。私は、本を買って読みました。統合失調症者でも適当な環境と周囲の人達の配慮があれば何とか社会生活が出来るのだなと私自身励まされました。

私は、ナッシュ教授のお話を映画で鑑賞しましたので、本で「ビューティフル・マインド」に挑戦しました。ちょっと手ごわい本ですが何とか読みきりました。映画の方が楽でしたが本で読んで、詳しくその当時の時代背景を交えて、第二次世界大戦、私が知っている米国の学者たちのお話もあって大変面白かったですよ。皆さんも、本で読んだほうが楽しいですよ。

 話を元に戻します。私が、何故残存症状に対処できるのか自分でもよく分かりません。援護寮に入寮して、病気と障碍、対処の仕方、制度などを必死で勉強しました。統合失調症を罹患していると医療スタッフ、施設のスタッフは最初、自分たちより当事者を見下げた感じの接し方をされているように私は感じました。しかし、「援護寮ヒエダ新聞」「メンタルにゅーすヒエダ」を継続して発行していくと彼らはニュースレターを楽しみにしてくれました。職場の上司や同僚たちには、精神障碍というものを分かってもらうためにお話をしました。また、私の周りの人達に個別に一人ひとり少しずつ精神病のことを話したりしました。「メンタルにゅーすヒエダ」をホームページにしたらいいと薦めてくれる人もいました。最近よく考えることがあります。たとえ悪口の幻聴や被害妄想があっても、それらが私の命をとるわけではありません。ただ、この残存症状は、私にとって不愉快ですが何とか対処しています。幻聴と妄想は100パーセントありえないものだと私の経験では理解できます。幻聴と妄想は、病気の症状が残存して発現しているのだと今はそう考えています。ですので、大概は職場では、クラッシック音楽をウォークマンで聴きながら仕事をしています。今は、テープでもMDでもなく嵩(かさ)をとらず1000曲くらい再生できるディジタル・ディスク・プレイヤーがありますので非常に便利な時代になりました。

【編集後記】

 私は、発病して20年後くらいから、病識が持て、メンタル管理ができるようになりました。再発のリスクを最小限に抑えるには、服薬と通院です。これらのことは、最初に入院した山口大学付属病院の教授が私に話してくれました。今回のメンタルにゅーすを編集するとき、その頃のフラッシュバックがあり思い出しました。入院中病院では、私はベッドに寝てばかりでした。私は、自分の病気の精神分裂病という呼称に恐怖を感じていました。

 それが、今から28年前のことです。その時代にも統合失調症に罹患していた人はいましたし、病識を持ってメンタル管理をしている当事者は、多分、いたと思います。私は、何が言いたいのかといいますと、未来へと進むこのとき、私は「未来の人達に統合失調症に罹患しても、上手く対処して生きている人がいるぞ!」という事を伝えると共にそのノウハウを後世へと伝えていきたいのです。自分の人生は自分のものです。出来ることなら私は、後世の当事者達が辛く苦しまないで欲しいのです。私は皆さんに、一つの生き方・選択肢を伝えていきたいのです。

トップページに戻る