まず言葉の意味の確認をしましょう。ここで言うオープンやクローズの説明をしましょう。仕事をするときに自分の病気や障碍を職場の皆に話して働くことをオープンと言います。反対にクローズとは職場の皆に病気と障碍のことを話さないで働くことを言います。私は、下関で仕事をするまで、自分の病気と障碍をクローズで働いていました。勿論、CIL下関では精神の当事者職員の求人募集でしたので、当然、病気と障碍はオープンで働いています。オープンだと調子の悪いとき、早退や休むことが比較的楽にとることができます。上司も同僚も、私の罹患している統合失調症が彼等にとって正体不明の病気と障碍であってもなんとなく理解して、ありのままの私を受け入れてくれました。職場では、何回か精神障碍のことを同僚に話す機会が与えられ、全体で・個別に少しずつ理解を図って、伝えていました。
上司のKは、わたしの採用が決まって調子が悪いときは、休んだり在宅就労などを私について考えているよと話してくれました。私はこのほかに短縮就労(9〜15時)、超短縮就労(9〜12時)、欝のとき朝が辛いので時間差就労(10〜16時)など就労の仕方を色々考えて上司・同僚に理解を図りました。こういった就労の仕方を考えても、実際に使ってみるとどうしても職場の皆に責め苛まれる幻聴と妄想が多かったです。本当に楽につかえるようになったのは、ここ2〜3年くらいのことです。ここで仕事をオープンで働くことのまとめをします。
職場で病気と障碍をオープンで働くメリット
1.
調子の悪いとき休める
2.
調子の悪いとき早退できる。
3.
自分の調子に合わせて様々な就労形態が使える。
@
超短縮就労(9〜12時)
A
短縮就労(9〜15時)
B
時間差就労(10〜16時)
C
在宅勤務
上司はSAMが働きやすい就労形態を考えて下さいと言われたので自分でメンタル管理を行ないながら、様々な就労形態を考えました。自分の病気と障碍に対処しながら、仕事・生活を9年間過ごしてきました。それと、自分は調子が悪くなったら上司に報告して、就労形態を自分で考えて決めてくださいとのことでした。まさに自己決定・自己実現・自己責任で自立の3原則を私の生活の中に取り入れたことになり私の生活の中のライフスタイルにぴったりでした。
病気と障碍をクローズで働くとどのようになるのでしょうか?私の場合、デメリットをあげて考えて見ましょう。
職場で病気と障碍をクローズで就労するデメリット
1.
調子の悪いとき休むことができない。
2.
調子の悪いとき早退できない。
3.
自分の調子に合わせて様々な就労形態が使えない。
@
超短縮就労
A
短縮就労
B
時間差就労
C
在宅勤務
病気や障害を肯定的に考えるか否定的に考えるか、その捉え方次第で私たち精神障碍者は、就労できるかできないかの線引きが決まってくるようです。
それと、私は、仕事・生活の中で妄想と幻聴の残存症状がありますので、その症状がマックスパワーで生じ始め、非難されるような妄想・幻聴で辛くなります。そんな非難されるような妄想と幻聴があることが予め分かっているのなら無視すればいいのではないかと考えても、無視できないですよ。私は、何度か無視しようとしましたが、無理でした。
私の病気と障碍の気分は、お酒を飲んで二日酔いで40kgの錘をかかえたくらいの気分ですので、これが私に一生続くのであれば辛い毎日ですね。錘なら投げ捨てられますが私の場合、自分の抱えている病気と障害を投げ捨てることができませんし、白旗を揚げれば自立生活はもう無理かと思います。自分のことを他人事のように話しているようですが、これらのことが現実に私の身体と心の中に生じているのです。
今は、色々仕事をするのに障碍があります。それは、幻聴と妄想が覚醒時ずっとあることです。こういった残存症状を抱えて仕事・生活していることで、仲間達の病気と障碍を共感して私にしか出来ないピア・カウンセリングなどのピアサポート、メンタルにゅーすヒエダなど自分の経験を活かした仕事ができればと思います。
【編集後記】
私は、仕事と統合失調症と何の関係があるのかさっぱり分かりませんでした。私の経験では多分、職場の人とコミニュニケーションが上手く取れないことや知らない人達と働くと残存した幻聴と妄想がひどくなります。その被害妄想、非難の幻聴に堪えられなくなって仕事に行かなくなるのではないかと思います。この頃(山陽小野田市に住んでいたころの10年以上前)は、精神障碍に理解ある人が私の周りにいなくて孤独で辛い毎日でした。
病気と障碍をオープンにして働くかクローズで働くかは当事者が各自決めて働くのが自立の3原則(自己決定・自己実現・自己責任)では大切なことです。精神病は脳の病気で心の障碍ではないかと私は、常々考えています。まだまだ、社会や健全者のものの考え方が成熟しておらず差別・偏見・汚名の下に障碍者をネガティブに捉えているのだと思います。しかし、社会や健全者のために我々障碍者は生きているのではありません。障害を抱えていても社会の中で普通に生活してもいいのだと、ここ最近頓(とみ)に思います。
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