私は下関市の援護寮ヒエダに入寮してから、決心したことがあります。
1.
援護寮で生活技術をみにつける。
2.
金銭管理・ドラッグ管理・調理は最低限みにつける。
3.
統合失調症の勉強をする。
4.
残存した幻聴と妄想に対処できるようにする。
5.
始めたことは最後まで続ける。
6.
福祉の仕事をする。
以上のことを入寮してから決めました。退寮のとき、6項目全部完遂できました。
これを言うと恥ずかしいのですが、統合失調症を罹患してから私は40歳を過ぎるまでお金を財布の中に数千円以上入れておいたことがなかったです。今までお金は、「天下の回り物」と思っていました。お金に使われるばかりで、管理することが出来ませんでした。それで、私は援護寮での小遣いを1週間3千円としてお金を管理することから始めました。
援護寮では、3年間ギリギリまで寮にいて自立生活の訓練をゆっくり身につけていきました。運のいいことに在寮中に、就職して1年間職場に通勤していました。それが、CIL下関でした。精神の当事者職員として働くことになりました。週3日の出勤から始めて、完全就労(9〜17時)に4ヶ月かけて精神・身体を慣らしました。自分の病気と障碍をオープンで働くようになりましたので働きやすくなりました。
この頃は、CIL下関を立ち上げて2年目でした。私は、仕事に慣れるまでに5年くらい時間がかかりました。少しずつ毎日、病気と障碍に対処しながら仕事をしました。時間の過ぎ去るのが、「光陰矢のごとし」です。私は、精神病の統合失調症を仲間の職員に理解してもらうことを目標に個別に対応していました。
上司のK、M、同僚にサポートされながら、遅遅とした速度で仕事をしてかつ覚えていきました。上司のKから、私にこれといった仕事の指図はありませんでした。精神のニュースレター「メンタルにゅーすヒエダ」の編集、CIL下関の機関誌「ネイチャー」の編集、CIL下関の事業資金の捻出に財団への助成担当の仕事などを手がけるようになり、いつの間にか気がつけば、担当の仕事として任されるようになっていました。
私は、CIL下関の就職が最後のチャンスだと考えて、あせらず・がんばらず・むりしないでゆっくりと着実に前に前に進んでいきました。それだから、4ヶ月かけて完全就労に向かって少しずつ勤務していきました。そして、CIL下関の勤務のかたわらで抗精神病薬の調整もしていました。それまでは、毎日職場に行くと仕事どころではなくて身体が重く・だるく・睡魔がありました。薬の調整で治まりました。
いま、CIL下関の勤務を振り返れば、よく仕事が10年間も続いたものだなと思います。健全なとき日立製作所での勤務が5年弱くらいですから、自分にとってはCIL下関での仕事は最後のチャンスでした。私は、昔、自分勝手だし・我がままだし・無責任だし・全て自分中心に地球が回っているように思っていました。
服薬しないで飲酒を続けていていたので次第に調子を崩していきました。これが3回目の入院でした。この入院は、隣近所に迷惑をかけて警察に保護されましたので措置入院という強制入院でした。4年間の入院でした。こんなに長く、過去入院したことが無かったので性根が入りました。やっぱり、強制入院はなかなか退院することが出来ないですね。しかし、3回目の入院は色々ありましたが、精神の制度の勉強になりました。
今の私があるのは、CIL下関の上司・同僚、友人、援護寮の仲間・職員、施設職員、看護師・主治医のお陰です。下関で、仕事・生活、人間関係の再構築と様々な人達にお世話になりました。いままでで、一番素に近い生活をここ下関市でやり直しています。私は、こんなに落ち着いて・イライラせずに地域社会生活を続けているのは奇跡のようです。下関の同じ精神の当事者達のためにお役に立てばと思います。私は、社会の中で育てられ感謝しております。そのお返しと言ったら笑われるかもしれませんが私の経験をニュースレターにして、ホームページに残しております。日本語が分かれば、コンピュータを持っていればだれでも「メンタルにゅーす」を閲覧することが出来ます。これが、私の精神の仲間たちへのささやかな贈り物です。皆様のお役に立てば私は嬉しく思います。(*インターネットで「メンタルにゅーすヒエダ CIL下関」と検索すれば「メンタルにゅーすヒエダ」がすぐに見つかります。)
【編集後記】
私は、統合失調症になって、小さな頃を最近ちょくちょく夢に見ますし、思い出しています。私が小さな頃のことを振り返ってみても生活には支障が無かったのですが、やはりその頃、幻聴と妄想が小学生の頃にはありました。人ごみの中が嫌いでした。自由時間が嫌いでした。他人に監視されているような気配がしたりしていました。
かといって、今まさにリアルタイムで生きている私は、自分が罹患している統合失調症に白旗を揚げるわけにはいきません。発病して30年のキャリアを自分の病気と障碍に役立てて対処していますので、今はこの調子でいいのではないかと思います。私は柳の木のように統合失調症という病気と障碍に向かい合ってこれからも生きていきます。
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