統合失調症と共存して地域で生きる

 今は地域社会のなかで前向きに生きていこうと頑張っていますが、今の自分になるまでには紆余曲折がありました。今の自分を理解してもらうために、まずは自分が統合失調症になる前後から話そうと思います。

 私が精神病になったのは何がきっかけなのだろうかと振り返ってみたときに思い出されるのは、小さなころから父が怖くてびくびく怯えて、周りを気にしながら生活していた自分の姿です。父から虐待を受けていましたのですごく怖かったです。今思えば周りの大人の機嫌をみながら生活していました。物心ついた頃から貧乏で、三度の食事は梅干とご飯のお茶漬けだけということがしょっちゅうでした。父はアルコール依存症で仕事をしないで毎日、朝から晩まで一日中酒を飲んで、母に働かせていました。あまりの生活に町内の民生委員が生活保護の手続きをしてくれました。小さな頃から、自分が貧乏な状態から這い上がるには勉強していい高校、大学に入ることだといつも思っていました。

 中学2年生のときの恩師から無理に大学に行かないでも大きな会社で働けば試験制度があり、それをクリアしていけば大学課程の勉強はできるとアドバイスを受けました。それで工業高校を卒業して日立製作所の家電研究所に就職しました。

 入社してすぐに躁とうつが私に襲いかかってきました。今思うと、それは企業の研究所は各有名大学のエリートが勤めていて、自分の力で本当に仕事をしていけるのだろうかという不安からでした。統合失調症特有の症状が出てきたのは、会社の学校にいっていた頃からで、人間関係が上手くいかず絶えず誰かに見張られている感じがしていました。何とか会社の学校は卒業したのですが、なにをやっても仕事が上手くいかず、会社を休み始めました。会社の上司はノイローゼになったのだろうとカウンセリングを受けさせたりいろいろ手を尽くしてくれましたが、結局自分がギブアップして会社を辞めて山口に帰ってきました。

 帰省して最初は、おじさんの家で仕事を手伝って就職先を探して設計の仕事を始めました。その会社で初めて統合失調症を発病して山大の付属病院に4ヶ月入院しました。退院はしたものの仕事が続かず休職して自宅で療養していましたがうつがひどくなり、母が心配してまた別の精神科病院に入院しました。この病院も4ヶ月くらいで退院しましたがすぐに父が亡くなり、それから再就職した会社の総務課長と自分の部署の課長が自宅に来て、退職するように言われて同意しました。今考えてみると自分は極端な仕事のしかたをしていました。会社は毎日残業して睡眠時間は、23時間の生活を繰り返していました。

 人間の心も身体も無理はできないなと今なら思います。とにかく、仕事ができることを周りの人に認めて欲しかったのだろうと思います。それから5年くらいは自宅に引きこもって、毎日ボケーッとしていました。母は私が怠けているのだろうと毎日毎日早く仕事をするようにガミガミ言っていました。母は統合失調症がどんな病気であるかが分かっていなかったので、とにかく精神病というのは「怠け病」だとでも認識していたのだろうと思います。

 29歳の春に家庭教師を始めて5年続きました。この頃から服薬をきちんと守り睡眠時間を8時間以上とるようになりました。薬の副作用でいつも眠く普通の会社の朝からの仕事では起きられなくて、1日45時間の夜の家庭教師の仕事を選んだのです。しかし、まだ自分の病気や障害の特性もわからず、将来のことも考えず、そのときが楽しければいいという刹那主義的な生活を送っていました。

 家庭教師も5年目になった頃、会社から仕事を請けていた私は、会社が傾きかけたのに気づかずローンとかを組んでいたのが払えなくなってうつ状態になりました。母はあきれて家を出て行き、自分は生活できなくなって生活保護を受けて、また4年くらい自宅でボケーッとしていました。その間病気の浮き沈みはあったものの39歳の冬に隣近所に迷惑をかけて、行政による強制入院の措置入院となり、これで自分の人生も一生精神科病院生活かと思って人生をあきらめかけていました。ただ、ある看護婦さんと主治医だけが自傷他害の症状がなくなれば退院できると励ましてくれて、私は「今自分にできることをきちんとしよう」と治療に専念しました。自分にできることは毎日の生活のリズムを身につけたり、ADL(日常生活動作)向上のための生活技能訓練や病院の治療プログラムのレクリエーション(カラオケ、運動、散歩)などに積極的に参加したりすることでした。

 そんなことを3年間続けましたが措置入院は解除されませんでした。そのことに対して疑問を感じるようになった私は自分で県知事に処遇改善の手紙を出して、3回目にやっと措置解除となりました。解除の1年前より、主治医に社会と病院の中間施設の生活訓練施設援護寮に行きたいことを相談していました。しかし病院長は、措置解除にあたり、入院形態を措置入院の次に効力のある医療保護入院にしました。私はまた処遇改善の手紙を県知事に出して、公正な第三者機関による審査の結果晴れて任意入院となり、遂に退院して援護寮ヒエダに入寮しました。これが現在の生活環境にいたる前段階の、私自身にとっては「目覚め」の時期の経過です。

 さて、ここで基本的なことについて触れようと思います。皆さんはご存知ではないかもしれませんが精神病は他科の病気と違い、病気がよくなっても「治癒」とは言わず寛解(かんかい)」といいます。寛解(かんかい)」とは、簡単な例で説明すると、精神状態の増悪しているまるで火山の噴火しているような状態から精神状態が(くつろ)ぎ治まってきた休火山のような状態となった事を指します。しかし、精神疾患の特徴として、服薬をやめたり、ちょっとしたストレスで火山が噴火して精神状態が増悪してくることもあるため、「治癒」とは呼ばないのです。

 私はH13年の21日より稗田病院の敷地内にある援護寮ヒエダにいました。援護寮は社会と病院の中間施設で社会復帰の前段階の施設です。普通こういった施設への入所は、主治医や看護師、ケースワ−カーが勧めるのですが、私は入院患者である友人がパンフレットを持っていたのを何の気なしに読んでいました。最初は病院と同じように監視されて生活するところだと思っていました。しかし、本を買ったり、看護師さんに聞いて勉強してみると、生活のリズムをつけたり、病気や障害に折り合いをつけたり、就労の訓練をするところだとわかり、主治医に相談して推薦状を書いてもらって援護寮ヒエダに無事入寮できて仕事は福祉工場のひえだランドリーで働き始めました。

 当初自分は、病気や障害に折り合いをつけられず状態が悪くなって薬の調節をしてもらい、最初の1年は援護寮での生活は病気や障害に折り合いをつけるのと受容することで精一杯でした。それと同時に精神病やさまざまな制度・福祉・障害者の権利を勉強して、精神病者はいろんな情報や病気のことを理解して病識を持ったほうがいいのではないかと思います。

   障害者も健常者も地域社会で普通に共に生活するノーマライゼーション理念が謳われはじめて数年になります。精神障害者のいろいろな社会復帰施設などハード面の環境整備がされてきましたが、当事者が病気や障害に折り合いをつけたり、受容、対処法を身につけるような病識をつけるソフト面のプログラムは開発されてないのが現状だと思います。通常23回の入退院で病識が身につく人もいますがなかなか難しいことです。当事者本人が、何故病気になり入院したか、その原因が何か考えて問題意識を持つぐらいになるといいのですが・・・・・・

 私は統合失調症で幻聴・妄想の症状がありますが、どのようにしてこれらを乗り越えて病識を少しずつ身につけたのか少しお話してみます。幻聴で人の声(特に気の合わない人、嫌いな人、噂好きの人など)が聞こえていたとき、それに振り回され、心の中は不安で不快でした。特に私の場合、幻聴が先に生じ妄想が後に発現します。妄想は幻聴で聞こえた内容に対し頭の中で処理されて被害妄想が多いです。つまり幻聴と妄想の間にタイムラグがあります。私はテレパシーの能力があるのではないかと1人有頂天になっていました。もちろん今考えると人の考えていることや声が聞こえるわけもなく、そんなことは空想科学小説(SF)の中のことです。しかし、それでも自分は何かおかしいので自分を「冷静な目」で観察し始めました。その人の声とそっくりなので入院中、いちいち私のことを何か言っているのか、その人のいる部屋の病室をその人にはわからないように観察していました。彼は新聞を読んだり、眠っていたり、周りの人とたわいのない話をしていました。そうやって注意深く観察して分かったことは、人はそれほど私の悪口を言ってない、また一日中私のことを話しているわけがない、そんなに彼も暇でもないということが分かって、自分は病気のために幻聴や妄想が発現し、心の中がソワソワ・ザワザワするのだという結論に達しました。

 自分の今の状態は不完全寛解状態で服薬していることで病気が安定して再発予防につながっているのだということです。つまり病気と障害を受容していることで対処したり折り合いをつけているのです。基本は脳が過活動しているので脳を休ませればいいのではないかと考えだしました。それで私の場合は、安静にして横になって音楽を聴いたり眠ったり、散歩したりしています。安静に横になっているだけでもだいぶ気分は落ち着いてきます。どうも私の主症状である幻聴・妄想は論理的なのです。それは対人関係をソフトタッチにして言動に慎んで落ち着いていると幻聴も妄想もその頻度は減ってくることが最近になって分かってきました。

 このようにして、自分の症状を論理的に分析したり、病気や障害の特性の対処法を試して考えて何回も何回も繰り返して少しずつ病識がついてきたのです。

 病識を持てば自分の精神状態をコントロールすることができるようになります。とにかく、病識を当事者に持たせるようなプログラムのソフト面の開発が急務だろうと思います。当事者に病識を持たせたり、病気や障害を受容していくのは非常に難しいものです。例えば幻聴・妄想があると、かたくなな思い込みや考えを変えさせるのは大変です。自分のことを振り返った場合、「その状態は幻聴・妄想だよ」といわれるより「聞こえることはよくわからないけど、辛いんだね」とか「今は大変だけど、問題は解決するよ」などと声かけをして見守ってもらっていれば、もっと早く病気を受容して病識を持てていたかもしれないと思います。私は現在、幻聴も妄想もありますが、そんなことは医療関係者や親しい友人、知人にしか話さないように気をつけています。

 どうも私は、心の中に自分を「冷静な目」で監視する能力が身についてきたのか馬鹿なことをしないし、言わないように注意しています。皆さんからすれば平気な顔をしているように見えるかもしれませんが、心の中は始終ソワソワ、ザワザワしています。そんな状態にあっても、病識を身につけ、病気や障害に折り合いをつけて受容していけば、そしていろいろな支援・相談・助言・愚痴を聞いてくれる人たちがいれば私たち精神障害者も地域社会で生活していけます。

 「無理しないで頑張ろう」と私は常に思っています。「無理しないで頑張る」と言う言葉は矛盾しているように考えられますが助けが欲しいとき、悩みがあるときにケースワーカーや精神障害者地域生活支援センターの職員・自立生活センターのピアカウンセラーに相談しましょう。本当に無理をしないことです。食事・睡眠・通院・服薬・適度な仕事など、一日のリズムを正しくして自分の状態を崩さないように、いつも心の中に「冷静な目」を持つことそれが「病識」なのです。

 以上、かいつまんで主に私自身の経験に照らし合わせてみながら話をしました。いろいろとご不明な点もあるとは思いますが、まずはご静聴ありがとうございます。

【編集後記】

 これは、私が現在働いている職場の研修で発表した文章です。職場には、私が勤め始める以前から、身体・知的の二障害を抱える職員はいたものの、精神障害者は私が第一号でした。精神障害も様々な障害の一つで、本人や周囲が十分に障害特性を理解し、環境を整えていけば、あたりまえに暮らしていける、ということを、当事者の言葉で伝えたものです。あくまで私個人の経験等に即した内容ですが、考え方の基本としては多くの方に応用していただけるかも知れません。皆さんなりに、「どのように障害と共存して地域で生きるか」を考えていただければ−と思います。

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